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後期の集落

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後期には沖積平野の奥や洪積台地など現在水田となっているような低地に、突如として大規模集落が営まれるようになる。苅田町木ノ坪遺跡では、後期から古墳時代初頭にかけての方形竪穴住居跡約八〇軒からなる集落が調査されている。築城町十双遺跡でも、後期後葉から末に最盛期を迎える集落の一部が調査され、三一軒の住居跡が確認されている。集落全体としては、一時期に三〇軒以上存在したことが推定されている。一方、低丘陵上に所在する前期から中期にかけての拠点集落であった下稗田遺跡でも、中期後葉に一時集落が途絶えたのち後期になると再び大規模集落が形成され、七七軒の住居跡が調査されている。これらの集落を構成する住居の一般的形態は、床面がほぼ方形の竪穴住居に統一されている。床面中央部には炉があり、主柱穴はこの炉を挟んで二本設置するものと方形に四本配置するものが多い。また、一辺の中央部には〇・五~一メートル程度のピットがあり、この辺の両側の辺かまたは残りの三辺には床面より一段高いベッド状遺構が作られている(第50図参照)。この住居の構造は次の古墳時代前期まで受け継がれていく。後期には貯蔵穴に代わって高床倉庫が建築されるようになる。豊前市小石原泉遺跡では後期終末の集落が調査されているが、三軒の方形竪穴住居跡とともに方一間の掘立柱建物跡が二棟発見されている。

第50図 下稗田遺跡後・Ⅰ・27号住居跡