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墓地の変遷

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弥生時代の墓地は、集落に隣接した場所に、明らかに集落とは別の空間として設定され、前期から中期では共同の集団墓地を形成している。ただし、乳幼児は下稗田遺跡・豊津町金築遺跡などにみられるように集落の内部に甕棺に入れて埋葬する例がしばしばみられる。埋葬施設の種類では、石棺墓・石蓋土壙墓・土壙墓・木棺墓・木蓋土壙墓・甕棺墓などがある。このうち、木棺墓・木蓋土壙墓などに使用される木材は腐食してしまい、発掘調査によっても十分検出されない場合もある。また、大型甕棺墓は北部九州で広くみられる墓制である。京築地域では小児用には使用されているが、成人用の大型甕棺墓は使用されていない。
 下稗田遺跡I地区は前期後葉から中期中葉まで継続して営まれた一連の集団墓地である。墓地を構成する遺構は、石棺墓・石蓋土壙墓・土壙墓・甕棺墓など二一五基と祭祀遺構二〇基である。これらの遺構のうち埋葬施設は丘陵頂上部の平坦面に、尾根線に並行するように列をなして築造され、祭祀遺構は埋葬施設の周辺部の斜面側に、点在する(第51図参照)。石蓋土壙墓・土壙墓は、棺の周りに一段掘り下げた墓壙を持つものが六割程度ある。また、副葬品を持つ埋葬施設は一基しかないことは、まだこの時期には集団内部において個人間の力関係に大きな差異がないことを示している。

第51図 下稗田遺跡Ⅰ(1)地区全景
(行橋市教育委員会提供)

 中期後葉になると下稗田遺跡の中心集落の北方の丘陵に新たな墓地が作られる。この墓地は部分的に調査され、土壙墓二八基・甕棺墓二三基・祭祀遺構六基などが確認されている。この墓地の土壙墓は、全体的に大型で深い墓壙を持ち、玉類を副葬するものが五基存在する。これは集団内の個人や家族の間にしだいに格差が生じてきたことを示しており、これらの人々を手厚く葬る傾向が現れてきたものである。
 後期になると、特定集団のための墓地が作られるようになる。下稗田遺跡ではH地区方形周溝墓の内側から石棺墓・石蓋土壙墓・土壙墓などが一〇基検出されているが、これらのうち四基には素環頭刀・斧・鉇・刀子などの鉄製品が副葬されていた(第52図参照)。竹並遺跡10号墳は七基の埋葬施設を持つ方形周溝墓であるが、このうち二基の主体部から鉄剣・鹿角製刀装具・鉄鏃などが出土している。このような特定集団墓の頂点に立つものが、徳永川ノ上遺跡の墳丘墓群である。四号墳丘墓には七基の棺がおさめられており、そのうち4号棺は、墳丘墓のほぼ中心に位置する棺であるが、銅鏡・鉄刀・玉類などを副葬していた。当遺跡ではこれ以外にも同様の遺物を副葬する埋葬施設が多数あり、これらが墳丘墓という集団墓を構成している。そしてこの集団墓が全体として一〇基を超える群を形成している。このことから、当遺跡は京都平野南部に中心勢力を持つ有力な集落または一族の墓地と想像される。副葬品にみられるこのような状況は、築上郡南部においても穴ケ葉山遺跡で確認されている。穴ケ葉山遺跡は終末期の集団墓地であるが、石蓋土壙墓を主体とした八三基の埋葬施設のうち、約四六パーセントにのぼる三八基からなんらかの副葬品が出土している。これは、この集団墓地を営んだ集落自体が、ほかの集落に比べ優越していたことを示すものであろう。以上のように、京築地域では後期になると特定集団墓が各地に営まれるようになるが、特定個人墓についてはまだ明らかになっていない。

第52図 下稗田遺跡H地区1.1号石棺墓