石器の形態の変化や、生産地との関係、さらに鉄器への移行などの面に消費地としての当地域の性格がうかがわれる。
稲の穂摘み具である石庖丁は、葛川遺跡で平面形が三角形に近い古い形式のものが出土している。また、黒色粘板岩を素材として、背部を擦り切りして製作したものがみられる。前期後葉から中期にかけては細粒砂岩や粘板岩・頁(けつ)岩を素材とした、外湾刃半月形の平面形のものが主流となるが、杏仁(きょうにん)形や直線刃半月形のものもみられる。当地域で使用される石庖丁の生産地は飯塚市立岩周辺だけでなく、北九州市西部地域にも想定される。後期では鉄鎌が普及するが、石庖丁は下稗田遺跡では住居跡七五軒から二三点で一軒当たり約〇・三点しかないのに対し、十双遺跡では三一軒で一七点あり一軒当たりでは〇・五五本所有していることになる。京築地域のなかでも小地域間または集落間で、鉄器への移行に若干の差異があったことが推測される。
太形蛤刃石斧は、前期中葉では全体的にやや小型であるが、後葉から中期前葉には全長二〇~二五センチメートルの大型で胴身部の厚いものが多くなる。また、この時期にはやや小型で断面形が隅丸方形をなすものなど形態の分化が進んでくる。中期中葉では分化した多様な形態が逆に淘汰(とうた)されて、胴身部が厚く、断面形が楕円形のものが主流となる。片刃石斧のうち、抉入柱状片刃石斧は前期には断面形が方形のものが多く、蒲鉾(かまぼこ)型のものは少ないが、中期になると蒲鉾型で厚手のものが多くなり断面台形のものもみられる。石斧は前期・中期段階では石器全体の約二割前後を占めるが、鉄斧の普及に伴い後期になると一割以下になる。なお、当地域で使用される太形蛤刃石斧のうち、六割程度が北九州市八幡西区の金剛山麓産のものと考えられ、福岡市今山産のものは五パーセント程度にとどまる。
磨製石鏃は前期中葉には縦長の身部に方柱状の茎を持つものがみられるが、中期では無茎で身部の短い二等辺三角形をなすものが多い。中期後葉以降になると、石剣などとともに武器は鉄器化していくものと考えられ、出土例がごく少なくなる。