縄文時代晩期末から弥生時代前期に、福岡県西部から長崎県の北部沿岸部にみられる特徴的な埋葬施設に支石墓がある。これは土壙墓や甕棺墓の上に支石を置き、その上に大形の板状の上石を載せるものである。曲り田遺跡の支石墓では、楕円形の墓壙に火葬骨が葬られ、丹(に)塗り磨研の小型壺が副葬されていた。前原市志登(しと)支石墓群(第54図)は一〇基の支石墓があり、上石は径二メートル程度、厚さ五〇センチメートルを計るものがある。
第54図 前原市志登支石墓群
前期末から中期初頭の時期になると、一般の集団から突出した特定集団の墓地が形成され始める。唐津平野の宇木汲田遺跡では前期末から中期中葉の甕棺墓を中心とした墓地があり、多紐細文鏡・細形銅剣・細形銅矛・細形銅戈など、朝鮮半島からもたらされた青銅器が副葬されていた。福岡平野西部の福岡市吉武遺跡群の高木・大石地区では一〇〇〇基を超す甕棺墓からなる共同墓地が発見され、やや離れた場所に朝鮮製の青銅器を多数副葬する特定集団墓が営まれている。このように、福岡平野から唐津平野にかけての地域では、朝鮮半島との交易を通じて、集団内部での富の集中がいち早く進んだ結果、既に前期末から中期初頭の段階でそれぞれの地域を統括する特定集団が共同体内部から生まれてくる。