ビューア該当ページ

前期

225 ~ 227 / 1391ページ
初めて水稲耕作を行った集落は、北部九州では縄文時代晩期末にさかのぼる。福岡市板付遺跡では突帯文土器単純期の水田と集落が発見されている。御笠川の氾濫原に延びる舌状台地上に住居と貯蔵穴からなる集落と墓地が営まれ、水田は集落西側の氾濫原に広がる。弥生時代前期になると、集落は南北約一一〇メートル、東西約八一メートルの卵形の環濠に囲まれ、墓地は環濠の外側に営まれるようになる。ほぼ同時期の二丈町曲り田遺跡では水田より三〇メートルほど高い独立丘陵上に、方形竪穴住居跡三〇基と支石墓一基が営まれ、晩期終末の夜臼式より古い曲り田式土器が出土している。遺物では各種大陸系磨製石器と石製・土製の紡錘車のほかに、板状鉄斧が注目される。佐賀県下でも唐津市菜畑遺跡では小さな谷底平野に湿田タイプの水田が開発されている。諸手鍬(もろてぐわ)・えぶりなどの農耕具や弓など、多数の木製品が出土している。また、菜畑遺跡の南東約六キロメートルにある宇木汲田(くんでん)遺跡でも、晩期末の水田跡が発見されている。
 縄文時代晩期末から弥生時代前期に、福岡県西部から長崎県の北部沿岸部にみられる特徴的な埋葬施設に支石墓がある。これは土壙墓や甕棺墓の上に支石を置き、その上に大形の板状の上石を載せるものである。曲り田遺跡の支石墓では、楕円形の墓壙に火葬骨が葬られ、丹(に)塗り磨研の小型壺が副葬されていた。前原市志登(しと)支石墓群(第54図)は一〇基の支石墓があり、上石は径二メートル程度、厚さ五〇センチメートルを計るものがある。

第54図 前原市志登支石墓群

 前期末から中期初頭の時期になると、一般の集団から突出した特定集団の墓地が形成され始める。唐津平野の宇木汲田遺跡では前期末から中期中葉の甕棺墓を中心とした墓地があり、多紐細文鏡・細形銅剣・細形銅矛・細形銅戈など、朝鮮半島からもたらされた青銅器が副葬されていた。福岡平野西部の福岡市吉武遺跡群の高木・大石地区では一〇〇〇基を超す甕棺墓からなる共同墓地が発見され、やや離れた場所に朝鮮製の青銅器を多数副葬する特定集団墓が営まれている。このように、福岡平野から唐津平野にかけての地域では、朝鮮半島との交易を通じて、集団内部での富の集中がいち早く進んだ結果、既に前期末から中期初頭の段階でそれぞれの地域を統括する特定集団が共同体内部から生まれてくる。