第55図 甘木市平塚川添遺跡高床建物復元図
(宮本長二郎氏原図)
中期には各集落またはクニの内部で勢力を持つ特定集団の墓地が、一般の集団墓地の中に分離して営まれ始める。このような首長層の墓地としては、次のようなものがある。伊都国の糸島平野では前原市三雲南小路で多数の甕棺墓の中に分離して存在する一号甕棺墓から中国鏡二六面以上・中細形銅剣一本・中細銅矛二本・中細銅戈一本のほかにガラス製の璧・勾玉・管玉などが発見されており、二号甕棺墓からも中国鏡一六面以上とガラス製の玉類が出土している。奴国の春日市須玖岡本一帯は数万基を数える甕棺墓が存在するが、D地点の支石墓下の甕棺から前漢鏡三〇面・銅剣四本・銅矛五本・銅戈一本・ガラス璧一点が発見されている。更に、南東約一〇キロメートルの夜須町東小田峰遺跡でも甕棺墓が四二〇基以上発見され、このうち10号甕棺墓からは前漢鏡二面・鉄剣一本とガラス製璧を転用した円板状装身具二点などが出土している。一方、不弥国に比定されている飯塚市では立岩堀田遺跡でも三次にわたる調査で、特定集団の墓地から四三基の甕棺墓が発掘され、10号甕棺から前漢鏡六面・銅矛一本・鉄剣一本が出土している(第56図)。吉野ケ里遺跡では中期前半から中ごろの時期の南北四〇メートル、東西二六メートル、高さ二・五メートルの墳丘墓が営まれ、内部の甕棺墓からは有柄銅剣一本・細形銅剣三本やガラス製の管玉などが出土している。
第56図 飯塚市立岩堀田遺跡10号甕棺墓
(飯塚市教育委員会提供)
中期には集団間でしばしば戦闘が行われており、福岡県穂波町スダレ遺跡では甕棺墓内から脊椎に磨製石剣が刺さった成人人骨が発見されており、筑紫野市隈・西小田遺跡群でも頭骨のない人骨が甕棺墓に埋葬されていた。ほかの遺跡でも石鏃や石剣の先端部だけが棺内から出土する例は数多い。これらの例は、『魏志倭人伝』の内にみる百余国から三十余国への過程を示している。
中期には日常生活に使用される道具の生産の在り方も変化し、石器では専業的な製作集団が現れる。飯塚市立岩周辺の堀田・焼ノ正・下ノ方などの遺跡では、西方にそびえる笠置(木)山などで産出する赤紫色の輝緑凝灰岩や頁岩を素材に、石庖丁を中心に石鏃・石剣などを製作している。また、福岡市西区今山遺跡では黒色の玄武岩を素材とし、長さ二〇センチメートル・幅八センチメートル・厚さ六センチメートル前後の大型の太形蛤刃石斧を製作している。更に、北九州市八幡西区の金剛山西麓に所在する原・馬場山・辻田西・門田などの諸遺跡では、灰色の硬質砂岩・粘板岩で石庖丁・扁平片刃石斧・石鏃・石戈などを製作している。これらの石器の一部は、福岡県内を中心に佐賀県東部や熊本県北部の地域でも使用されている(第57図参照)。また、福岡県春日市周辺で鋳型が集中的に発見され、この時期には青銅器の生産も盛んになっていたことが分かる。岡本町四丁目遺跡や大南遺跡では小銅鐸の鋳型が、大谷遺跡では銅鐸・銅矛・銅剣・銅戈の鋳型八点が発見されている。須玖永田遺跡では、小型仿製鏡、赤井手遺跡では銅矛・銅戈などの鋳型九点とともにガラス勾玉の鋳型が出土している。このほか、春日市の北側に接する福岡市赤穂ノ浦遺跡では外縁付き紐式銅鐸の鋳型が発見されているが、同様のものは佐賀県鳥栖市安永田遺跡でも見つかっている。
第57図 今山石斧と立岩石庖丁の分布範囲
(下篠信行「村と工房」『古代史復元4』より)