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後期

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後期になると防御施設としての環濠が多くなり、拠点集落だけでなく中・小規模な集落でも環濠を持つものが現れる。福岡市野方中原遺跡では後期後半の環濠が二か所にあり、長径約一二〇メートルの楕円形環濠(A溝)は竪穴住居跡からなる居住区を囲み、B溝は二五×三五メートルの規模で高床倉庫群の周りに方形にめぐらされている。佐賀県千塔山遺跡では丘陵頂上部の平坦面を囲む一辺が七〇メートル前後の方形の環濠が確認されており、その内側には竪穴住居跡七~八軒と七棟の高床倉庫が、外側でも三か所に竪穴住居跡群が見つかっている(第58図参照)。この例は一つの集団内でも環濠の内側に住居を営むことができる人々と、そうでない人々とが存在したことを示している。

第58図 佐賀県千塔山遺跡弥生時代後期集落配置図
(下篠信行氏原図)

 中期以後顕著になる特定集団の墓地は、後期初頭には王墓と考えられる特定個人墓へと変化し、福岡県西部から佐賀県北部で発見されている。末羅国の佐賀県唐津市桜馬場遺跡には後漢の方格規矩鏡二面・巴形銅器三点・銅釧(くしろ)二六点を副葬する甕棺墓がある。伊都国では前原市井原鑓溝遺跡の甕棺墓から方格規矩鏡二一面以上・巴形銅器三点などが発見され、平原遺跡の方形周溝墓からも方格規矩鏡などの中国鏡三七面と日本最大の仿製内行花文鏡五面などが出土している。このように、後期に営まれる首長層ら特定個人のための墳墓が、次の時代では前方後円墳を典型とする古墳の築造へと移行していく。