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墳丘墓から古墳へ

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これらの墳丘墓や周溝墓はいくら規模が大きく、豊富な副葬品を持っていたとしても、あくまでも弥生時代の墓地であり古墳ではない。では古墳とは何か。この問題は古くから議論されてきた。近年、近藤義郎氏によって一つの見解が示されている。つまり、「古墳とは前方後円墳を代表かつ典型とし、その成立及び変遷の過程で、それとの関係において出現した墳墓をすべて包括する概念である」と規定している。更に、成立期の前方後円墳の条件であり、かつ弥生時代の墳墓との相違点として、次の四点をあげている。
(1)墳丘が前方後円形という型式が定まっていること。
(2)内部主体は長大な割竹形木棺であり、ほとんどそれがコウヤマキで作られている。そして、それを囲う竪穴式石槨がある。
(3)中国鏡特に三角縁神獣鏡の多量副葬の指向性がある。副葬品はほかに武器若干、生産用具若干が加わる。ただし、玉は副葬されない場合がある。
(4)埴輪を含め、土器類が象徴的な性格を持っている。つまり、焼く前に底に孔を開けられた壺や壺形埴輪がその典型である。
 そして、古墳によっては以上のような要素は、形の若干の相違や、大きさ・数量に多寡(たか)はあるとしても、四つの特徴を統一して備えているものが成立期の前方後円墳であるとしている。
 このような前方後円墳の出現時期は、地域によってわずかに前後するが、三世紀末から四世紀初めにかけてである。そしてその出現の理由について、同氏は「大和勢力を中心とした西日本各地諸部族の連合が成立したこと、もう一つはその部族連合の成立を契機として、共通の墳墓型式が生み出されたであろう」と考え、各地の首長は「この連合への参加の証」として前方後円墳を築造したとしている。
 それでは、このような前方後円墳体制を柱とした大和政権は、どのような経過で誕生したのであろうか。