三世紀末から四世紀にかけての前期は、古墳時代が始まり、急速に全国各地に前方後円墳を頂点とする古墳文化が広がる時期である。
弥生時代終末の首長墓をみると、西日本各地は地方ごとに独自の形態の墓を作りだしていた。中国地方東南部の吉備では方形ないし円形に土盛りした墳丘墓が築造され、岡山県楯築(たてつき)弥生墳丘墓では円丘の両側に突出部を持ち、全長約八〇メートルに達すると推定されている。一方中国山地から日本海側の出雲を中心とした地方では、方形の墳丘の四隅に突出部をつけ、墳丘全体に張り石をする四隅突出型弥生墳丘墓が築造される。また、北部九州では方形周溝墓や墳丘墓が造られる。このように古墳時代の前段階には、かなり広い範囲を単位として、地域的な結束ができ上がっていた。そして、これらの各地方の独自性を取り入れつつ、前方後円墳という共通の祭祀形態を作りだしたのが畿内の有力首長たちであった。畿内政権として誕生した支配体制は、畿内の各平野や盆地を統合した有力首長のなかで、特に強力な支配力を持つ首長(大王)のもとに形成された体制であったと考えられる。そしてこの前方後円墳による祭祀は、最終的には岩手県南部から鹿児島県まで広がっていく。