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中期

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五世紀代になると、畿内の大王は大陸や朝鮮半島と交流を深めながら、新しい技術や文化を取り入れようとした。また、中国の歴代皇帝に朝貢して、その権威を後ろ盾としながら、国内の地方豪族に対する支配体制を固めていった。
 中国の歴史書『宋書倭国伝』によると、この時期の倭王として、讃(さん)・珍・済(せい)・興(こう)・武の名前があげられている。これら「倭の五王」(第4図参照)のうち、武は「使持節都督倭・新羅(しらぎ)・任那(みまな)・加羅(から)・秦韓(しんかん)・慕韓(ぼかん)六国諸軍事、安東大将軍、倭王」と、朝鮮半島や日本の軍政官の称号を与えられた。当時、朝鮮半島は北部の高句麗(こうくり)と南部の新羅・百済(くだら)・伽耶(かや)諸国とに分かれており(第3図参照)、倭は伽耶諸国や百済と友好的関係にあった。このような朝鮮半島での地位を確立しようとした理由は、倭王たちが朝鮮半島に産する鉄資源に特に強い興味を持っていたためである。この時期、織物・金工・土木・須恵器生産や漢字の使用などの技術・文化が、大陸や半島からもたらされた。
 

第3図 五世紀の東アジア(白石太一郎氏原図)

 

第4図 倭の五王と日本書紀の天皇

宋書記載の各倭王と日本書紀の各天皇を対照。讃・珍についてはそれぞれ括弧内の各天皇に比定する説がある。