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中期の古墳

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畿内では大王級の古墳は、四世紀代には奈良盆地に営まれるが、五世紀に入ると河内平野に多く築造されるようになる。この現象の解釈については、大王権力の根拠地が移動したとする考え方と、最高首長の根拠地は常に大和にあり、墳墓の場所だけ移動させたとする考え方がある。
 五世紀の前方後円墳は、後円部に比べ前方部の発達が著しく、全体の規模も古墳時代を通じて最大になる。大阪府堺市大仙陵(だいせんりょう)(仁徳陵)古墳は全長四八六メートル、大阪府羽曳野(はびきの)市誉田(こんだ)御陵山(応神陵)古墳は全長四二五メートルを計る。これら大王墓以外でも、岡山市造山(つくりやま)古墳(全長三五〇メートル)・岡山県総社市作山(つくりやま)古墳(二八六メートル)など、地方豪族も巨大な前方後円墳を築造する。その背景には、高度な土木技術の存在が不可欠であり、古墳の周濠にたたえられた水は、開発が進みつつあった新田の農業用水として利用された。
 古墳の埋葬主体部は、前期に続き竪穴式石室や粘土槨が主流で、棺は割竹形木棺・組合(くみあわせ)式木棺に加え割竹形石棺・長持形石棺などの石棺の使用が増加する。副葬品では鏡が減少し祭祀的傾向がしだいに薄れてきて、武器や農工具などの実用品が増加する。武器・武具では、鉄剣に代わって鉄刀が多くなり、鉄鏃は長頸鏃に変化する。埼玉県行田市稲荷(いなり)山古墳や熊本県菊水町江田船山(えだふなやま)古墳などからは銘文を持つ鉄剣や鉄刀が出土している。甲胄(かっちゅう)では短甲や衝角付冑(しょうかくつきかぶと)に加えて、眉庇付(まびさしつき)胄が出現する。装身具では金銅製帯金具や金銅製耳飾りなど、金製品や金銅製品が現れる。また、新しい副葬品には馬具や陶質土器・須恵(すえ)器がある。埴輪(はにわ)では、人物や器材をかたどったものが増える。