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後期

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六世紀はまさに内憂外患の時代である。「倭の五王」と呼ばれた大王は、四七九年に雄略(ゆうりゃく)が没したのち、大和政権内部に後継者がなく、地方豪族は急速に勢力を強めていった。五二七年に朝鮮半島進出をめぐって北部九州に君臨する筑紫君磐井(いわい)が新羅と結んで乱を起こし、『日本書紀』には雄略の子星川皇子による吉備(きび)での乱が伝えられている。五〇七年の大王武烈(ぶれつ)の死後、雄略の子孫と称して越前から継体(けいたい)が大王として迎えられた。継体の治世中には大和政権は朝鮮半島経営をめぐっても危機に直面していた。半島では高句麗・新羅・百済の三国が覇権を争い、伽耶諸国が争乱に巻き込まれていた。大和政権は内部抗争などから伽耶諸国での支配力が弱まり、五一二年には百済の要求により伽耶西部の四県が割譲された。また、筑紫君磐井の乱が鎮定されたのち、新羅に奪われていた伽耶を復興するため半島に兵を派遣するが、敗退し、大和政権は半島での足場を失ってしまった。
 継体の死後、政権を支えてきた畿内の有力豪族の対立は深まり、継体天皇を擁立した大伴金村(おおとものかなむら)は伽耶の四県割譲問題で大連(おおむらじ)を辞任し、大伴氏は後退した。また、五世紀前半に伝来した仏教の受容をめぐって崇(すう)仏論争が起き、崇仏派の蘇我(そが)氏と排仏派の物部(もののべ)氏が激しく対立した。五八七年用明(ようめい)天皇の死後、蘇我馬子(うまこ)は武力で物部守屋(もりや)を滅ぼし、五九二年には自ら立てた崇峻(すしゅん)天皇までも殺害してしまった。
 このように、六世紀代は大伴・物部・蘇我などの大和政権内部の有力豪族がその地位を高め、天皇を自ら擁立し、逆に暗殺するまでに勢力を拡大した時期である。また、大和政権下の豪族の地位は、大臣(おおおみ)・大連などの新しく設けられた氏姓制度によって位置づけられた。