聖徳太子は六〇三年の冠位十二階によって官吏の位階を細かく定め、六〇四年には憲法十七条を発布して、中央・地方の官吏の服務などを規定した。その後、蘇我氏が再び台頭し、入鹿(いるか)が山背大兄(やましろのおおえの)王を自殺に追い込むに至って、中大兄(なかのおおえの)皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足(なかとみのかまたり)らは皇室中心の強力な国家体制を目指し、入鹿・蝦夷(えみし)ら蘇我氏を滅ぼし、六四五年に大化の改新を興した。そして翌年に改新の詔を出し、公地公民制や班田制・租税制度などからなる中央集権的な新政を開始した。更に、天智天皇は六六八年に近江令を制定し、六七〇年には庚午年籍(こうごねんじゃく)を作製した。その後、六七二年の壬申の乱に勝利した大海人(おおあまの)皇子は、天武天皇として即位し、六八四年に八色の姓(やくさのかばね)を制定し、律令(りつりょう)国家の基礎がほぼ完成した。
この間、対外的には遣隋使(けんずいし)・遣唐使が派遣され、中国の進んだ技術・文化が積極的に取り入れられ、仏教が興隆し、飛鳥(あすか)・白鳳(はくほう)文化が花開いた。一方、唐・新羅連合軍に侵略された百済を復興するための朝鮮半島に兵を派遣した大和政権は、六六三年に白村江(はくすきのえ)の海戦で連合軍に敗北した。