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鉄の生産

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広島県東部から岡山県にかけての地方は、古代には吉備と称されていた。吉備は、弥生時代後期には首長層の墓制である墳丘墓を営み、特殊器台形土器・特殊壺形土器など共通の祭祀用具がみられ、一つの政治的まとまりを形成していたことが明らかになっている。古墳時代になると吉備の有力豪族たちは畿内勢力との連合に従うが、地方豪族としては最大の勢力を持っていたことが推測される。それは、五世紀前半に相次いで築造された造山古墳(全長三五〇メートル)・作山古墳(二八六メートル)の規模の大きさからもうかがえる。
 この強大な勢力を支えていたのは、農業生産力だけではなく、鉄と塩の生産が大きな比重を占めていた(第7図参照)。鉄の生産は、一般的には五世紀後半の古墳に副葬される鉄鋌(てい)や鍛冶具の存在から、五世紀中葉には鍛冶生産が発達したものと推定されている。しかし、鉄器の原材の多くは朝鮮半島からもたらされたものであった。国内で鉄生産が本格的になるのは六世紀後半から七世紀初めで、この時期の製鉄遺跡は岡山県津山市緑山遺跡・同県久米(くめ)町大蔵(おおぞう)池南遺跡・同県総社市千引(せんびき)かなくろ谷遺跡・広島県世羅町カナクロ谷遺跡など、吉備の山間部や平野部で広く確認されている。これは他地域に比べ鉄の原材がこの地域に豊富だったからにほかならず、結果的に全国で最大規模の鉄生産地が形成されたのである。