古墳時代の玉類には勾玉・管玉・棗(なつめ)玉・切子(きりこ)玉・丸玉などがあり、その材質もヒスイや碧玉(へきぎょく)・緑色凝灰岩・水晶・滑石・メノウ・琥白(こはく)・ガラスなど多種にのぼる。これらの玉類の生産地は時期の変化とともに移動がみられる。
四世紀代は、勾玉はヒスイ製が多く、その産地は新潟県の糸魚川(いといがわ)流域である。管玉は緑色凝灰岩製がほとんどであるが、産地は石川県にある。このようにこの時期の玉生産は北陸地方の日本海側に集中している。
五世紀代になると、加工が容易な滑石が新しく玉の素材として使用され、装身具や祭祀具として多く用いられた。また、玉の生産地は出雲と畿内に移動し、出雲では碧玉やメノウから管玉や勾玉を生産した。畿内での玉生産の原材料は、和歌山県の滑石、島根県の碧玉、石川県の緑色凝灰岩、新潟県のヒスイで、琥珀は岩手県または千葉県から持ち込まれている。奈良県曾我町曾我遺跡では五世紀中ごろから六世紀初めにかけて生産され、完成品や未成品が約八五万点も出土している。
六世紀代では、ヒスイや滑石の玉類は作られなくなり、出雲で碧玉やメノウ・水晶を使用した管玉・勾玉・切子玉が生産される。一方、畿内での玉作りは途絶える。
各地で生産された玉類は、全国で装身具として使用されるほか、祭祀の必需品でもあったため、曾我遺跡例のように、大和政権は五世紀代には畿内に原材料や工人を集めて、直接生産したものと考えられる。