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埴輪の生産

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埴輪(はにわ)の祖形となる土器は、弥生時代後期に吉備で作られた特殊器台形土器と特殊壺形土器である(第8図参照)。吉備では弥生時代中期後葉以来集落で普通の器台が使用されていた。これが後期中葉になると口縁部や脚部に文様が施され、壺も長頸化が目立つようになる。しかし、後葉になって間もなくこれらの土器は集落から姿を消す。これに対応するかのように、後葉に円筒形で高さ一メートル前後の特殊器台形土器と、高さ四〇~五〇センチメートル前後で胴部が直径四〇センチメートル前後の玉葱形をなす特殊壺形土器が、セットで首長層の墳丘墓に使用されるようになる。古墳時代になるとこれに酷似した円筒埴輪が、箸墓古墳や奈良県天理市西殿塚古墳・岡山市都月坂(とつきざか)1号墳などで発見されている。
 古墳時代の埴輪生産は四世紀後半に集中的な操業体制が整うと考えられ、特に大王の古墳が集中する地域には、恒常的な生産工房が存在する。五世紀前半の誉田御廟山古墳(応神陵)を擁する河内古市古墳群では、藤井寺市土師(はじ)の里遺跡と羽曳野(はびきの)市誉田白鳥(こんだはくちょう)遺跡が知られ、誉田白鳥遺跡では九基の窯跡が発見されている。また、大阪府北部の三島野古墳群でも、五世紀中ごろから六世紀中ごろの埴輪窯一八基・埴輪工房三棟と工人の集落からなる高槻市新池遺跡が発見されている。
 各種の埴輪のうち、円筒埴輪は当初から製作されているが、家形埴輪や楯・靫(ゆき)・短甲・大刀などの武具形の埴輪、蓋(きぬがさ)・翳(さしは)などの首長の権威を示す埴輪などは五世紀前半に盛んに作られる。その後五世紀後半になると人物埴輪の製作が始まる。なお、これら各種の埴輪は六世紀末の前方後円墳の衰退とともに消滅する。

第8図 特殊器台形土器から円筒埴輪へ