近年、日本の「ポンペイ」ともいうべき集落が、群馬県子持村黒井峰(くろいみね)遺跡で発見された。この遺跡は、六世紀中ごろに噴火した榛名(はるな)山の軽石によって厚さ二メートルにわたって覆い尽くされた集落の跡である。
黒井峰村では、竪穴住居や平地建物・高床建物などで一世帯が構成され、合計一〇世帯程度が生活していたことが判明した。このうち「家畜飼いの家」と呼ばれる世帯は、竪穴住居一軒のほか、住居四軒・作業小屋一軒・家畜小屋五軒などの平地建物一〇軒と、高床建物四棟からなり、周りには垣がめぐらされていた。竪穴住居は八メートル四方で、床面の深さは一・五メートルを計る。作り付けのカマドは大型で、煙突を含めると高さ二メートルを超す。平地住居のうち一軒にはカマド付近の土間と、壁に沿った幅一メートルの寝るための空間(土座)があり、頭上には棚も付けられていた。家畜小屋は切妻屋根で、内部は三~四の小部屋に区切られ、床には板や丸木が敷き詰められている。この建物の脇には、家畜の糞尿をためたと考えられるくぼ地や溝があり、内部の土壌中の脂肪酸分析や足跡から、牛や馬が飼われていたことが判明している。更に、住居の周辺には一×三~四メートルの小さな長方形の区画数十枚からなる畑が耕され、稲が主に栽培されていた。ほかにも住居内から、小豆・ハトムギ・麻・ヒョウタンなどが発見されている。
このように一般集落を構成する建物には、竪穴住居と平地建物・高床建物とがある。竪穴住居は前期ではごく一部で床面が円形または多角形のものがあるが、大部分の地域では正方形ないし長方形である。主柱は四本または二本で、貯蔵穴やベッド状遺構を持つものがある。中期から後期になると、全国的に床面は方形で、主柱が四本になり、カマドを持つ住居が急速に増加する。掘立柱の平地建物は、五世紀代のものが大阪府八尾(やお)南遺跡などで見つかっているが、普及するのは六世紀以降である。高床建物も五世紀以降のものが確認されており、住居と倉庫とがあるが、通常二×二間で正方形に近い建物は倉庫と考えられている。