古墳時代には各地の首長層は、一般集落とは別に防御的性格を持つ濠で囲まれた居館で生活している。前期初頭の居館は、大分県日田市小迫辻原(つじばる)遺跡で三基発見されているが、うち東側の1号居館は外径四八メートルの方形に濠がめぐらされている。
中期から後期にかけての居館としては、群馬県群馬町三ッ寺遺跡がよく知られている。この居館は内部が約八六メートルの方形をなし、その周囲を幅三〇~四〇メートル、深さ三・五メートルの濠がめぐるもので、全体では一六〇メートル四方の規模を持つ。館の南北二か所の隅には方形突出部があり、外部への出入り口となっている。濠の内法(うちのり)面には葺石状の石垣が積まれ、その上面には柵列が設けられている。また、館内は柵列によって二分され、南西側には主殿と思われる一四×一三・七メートルの掘立柱建物があり、その前面に広場がある。北東側の区画には竪穴住居八軒と高床倉庫七棟が軒を連ねている。ほかにも館の内部には、四か所の張り出し部に望楼の存在が推定され、導水施設や井戸、更に水に関する祭祀を行う石敷遺構なども発見されている。
三ッ寺遺跡の居館が建設された五世紀後半は、全国的に豪族の居館が増加する時期である。その背景には、須恵器や鉄の生産などの新しい技術が地方に導入されたことと、土木技術の向上によって農地の開発が進んだことなどがある。これによって、地方に豪族が急成長したものと考えられる。