当古墳の築造方法は、墳丘に段を設けるものではないが、内側の周溝の幅が広く、墳丘盛り土との間に平坦面を設けていることから、外観上は二段築造の古墳に見える。この外観を重視するならば、甲塚方墳の三段築造と相通じるものである。
築造時期については、遺物の出土がなく、主体部の構造も不明のため確定はできないが、北東部に隣接する甲塚北古墳との墳形の類似性や周辺古墳群の時期から考えて、六世紀後半代の造営であろう。
京都平野内の後期古墳では、段築で墳丘を造る例は少ない。当古墳周辺のこの時期の墳墓は、その施設の内容や規模・数などから三つのグループに大別することができる。第一は行橋市竹並から西方に同市矢留地区を経て馬ケ岳に延びる花崗岩バイラン土の硬質層に営まれた数千基からなる横穴墓群である。第二は八景山から彦徳・高崎地区を経て馬ケ岳に広く分布する直径一〇メートル前後の小古墳群で、全体で数十から一〇〇基程度が存在すると予想される。第三のグループが彦徳東部から八景山南方に築造された、彦徳甲塚古墳・甲塚方墳など数基からなる、二〇メートル以上の墳丘を持つ古墳群である。第三のグループは、京都平野南部の旧仲津郡に相当する地域内では、犀川町本庄地区の姫神古墳・大熊古墳など四基の前方後円墳からなるグループと並び最も大形の古墳が集中する古墳群である。このグループの古墳を築造した階層は、六世紀後半代に旧仲津郡で大きな勢力を有していた地方豪族の一つと考えることができる。