石室は巨石を使用した複室構造の横穴式石室(第18図)で、基本的には勝山町橘塚古墳・同綾塚古墳など当地域の大型古墳に一般的にみられる形態である。しかし、玄室の構築方法をみると、標高四五メートル前後から上位では奥壁と側壁の交差部分に斜めに石材を渡しており、その上方の標高四六メートル前後の部分で大形の石材を廂(ひさし)状に水平に内方へ持ち送っている。このような構築方法も当地域周辺では少ない。なお、墳丘下位段築面の高さは標高四三・四~四六・七メートルで、玄室の腰石のやや上位の部分にあたり、上位段築面は標高四五・八~四六・〇メートルで、玄室の廂状に持ち送る部分の高さに相当する。
出土遺物のうち、墳丘の南側下位段築平坦面の敷石に接して出土した須恵器の甕・〓・高坏のセットは、墓前祭祀用土器としては端正な形態を持つ優品である。また、これらの三種の須恵器が各二点ずつ出土したことも、祭祀の在り方を考える場合の良好な資料となるであろう。当古墳の築造時期は、出土した須恵器の形式や石室の構造から六世紀の後半と考えられ、追葬や祭祀などは六世紀末まで行われていたようである。
また、同時期の古墳のうち、当古墳は、旧仲津郡では最大の規模を持つことから、この古墳に最初に埋葬された人物は、この時期に旧仲津郡に相当する地域を統括していた首長であると同時に、豊前国を代表する首長でもあったと考えられる。更に、墳丘の平面形態および石室構築の特徴からみて、この人物は当地域の出自の者であったとしても、畿内政権の強い規制を受けていたものと推測される。
第18図 甲塚方墳石室入り口