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遺構の詳細

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墳形が確認された古墳はすべて円墳で、石室は竪穴系横口式石室・複室横穴式石室および明確な墳丘を持たない小石室などである。各古墳の概略については、第1表にまとめているので、ここでは盗掘を受けていなかった2号墳について詳細に述べることとする。
 2号墳(第22図)は、当古墳群のやや北部に位置する円墳で、標高は七八・五メートルである。墳丘は北西側と南東側が急斜面のため流出するが、南西側と北東側の一部で周溝が確認された。周溝は広いところで幅二・四メートルで、全体としては、直径一五・六メートル、高さ三・二メートルを計る。石室の墓壙は長さ約七・五メートル、幅四・八メートル、深さ二・五メートルで、平面形が長方形をなす。
 石室(第21図)は南東側斜面に開口し、構造は当古墳群では最も新しい様相を示す複室の横穴式石室である。玄室は長さ二・四四メートル、幅一・九五メートルと主軸方向にやや長い平面形をなし、床面には二〇~三〇センチメートル程度の扁平な河原石の上に、五センチメートル前後の円礫が一面に敷かれていた。奥壁は二個の巨石を立てて使用し、その上部のすき間を三〇センチメートル前後の礫で埋めている。側壁は左右とも床面からの高さ〇・六~〇・八メートルの二個の巨石を並べて腰石とし、その上部に二〇~八〇センチメートルの角礫を内側に持ち送りながら積み上げている。天井は奥壁側を幅一一〇センチメートルの巨石でふさぎ、入り口側は幅四五センチメートルのやや小形の石を載せている。玄室の高さは二・二三メートルである。前室との境の玄門は幅〇・六二メートル、高さ一・〇一メートルで、床面には框石を敷く。袖石は右側が完全に一枚石の立石で、左側が立石と天井石との間に厚さ二〇センチメートルの礫を挟む。天井の楣(まぐさ)石は幅一〇五センチメートル、厚さ約五〇センチメートルの巨石である。前室は長さ〇・八五メートル、幅一・六七メートル、高さ一・四七メートルで、床面は玄室同様の敷石を施す。前室と墓道との間にも、床面に板状の框(かまち)石、両側壁には立石の袖石、天井部に楣石がみられる。また、この部分には石室を閉塞する石積みが残存していた。墓道は玄室側一・一メートルまでの壁には角礫が積まれているが、床面の敷石はない。墓道の幅は玄室側で〇・七六メートル、入口部で一・〇六メートルである。石室の主軸の方位は、N-43°-Wである。

第21図 北垣古墳群2号墳


第22図 北垣古墳群2号墳石室実測図

 石室内は奥壁最上部に小さな盗掘口があるが、床面はほとんど盗掘を受けておらず、副葬品はほぼ完全に残っていた。玄室および前室から出土した主な遺物は、須恵器の杯身七点・杯蓋八点・提瓶三点、直口壺一セットと、大刀一本・刀子四本・鏃三五本・馬具三点などの鉄製品、銅に金箔を張っていたと推定される耳環三個・碧玉製管玉一個・四〇個以上のガラス製小玉などの装身具である。
 また、人骨が頭を両側壁に向けて主軸に直交するように並べた状態で、頭骨・四肢骨・脊椎・骨盤などが検出され、その数は合計一〇体分以上にのぼる。2号墳の築造時期は、石室の特徴やこれらの出土遺物からみて、六世紀の第Ⅲ四半期と考えられる。
 古墳以外の埋葬施設では、小石室が四基検出された(第2表)。
 
第2表 北垣古墳群小石室一覧表
(単位:メートル)
遺構墓壙長さ深さ石室構造方位時期
番号石室長さ高さ玄門高さ墓道長さ遺物
1号墓壙1.92.0(0.4)石室横穴式石室N-43°-W時期六世紀第Ⅲ
小石室石室0.860.96(0.52)玄門0.32(0.35)墓道0.94遺物須恵器杯身1・杯蓋1
2号墓壙(2.6)1.2(0.7)石室石棺系石室N-58°-E時期
小石室石室1.780.420.29玄門墓道遺物須恵器高杯1・甕1
3号墓壙2.81.3(0.6)石室石棺系石室N-46°-E時期
小石室石室1.860.470.38玄門墓道遺物刀子3・ガラス小玉1
4号墓壙不明不明(0.8)石室石棺系石室N-83°-W時期
小石室石室1.720.420.45玄門墓道遺物

 1号小石室(第23図)は、当古墳群の中央付近に位置し、標高は八三メートル前後である。石室の墓壙は、平面形が長さ一・九メートル、幅二・〇メートルのほぼ正方形をなし、深さ〇・四メートルまで残存した。石室は玄室に墓道がつく、単室の横穴式石室の形態をなす。玄室は長さ〇・八六メートル、幅〇・九六メートルで、床面には円礫が全面に敷き詰められていた。玄門部は幅〇・三二メートルで、床面に框石が置かれ、両側に袖石が立てられていた。墓道奥には閉塞の石積みが残っており、墓道は入り口に向かって八の字形に開く。石室の規模からみて、当小石室は小児用であろう。

第23図 北垣古墳群1号小石室

 副葬品としては、玄室入り口の右側壁付近から須恵器の杯身と蓋がセットで出土し、内部にはハマグリが一個納められていた。時期は六世紀の第Ⅲ四半期である。