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遺跡の性格

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節丸地区には祓川を挟んで東西の丘陵部に、六世紀代を中心としてその前後の時期にまたがる群集墳が多数分布しているが、北垣古墳群の発掘調査によって幾つかの具体像が明らかになってきた。つまり、古墳群全体の築造時期と位置関係については、まず五世紀代後半に竪穴系横口式石室を主体部に持つ3号墳・7号墳が約七〇メートルの距離をおいて築造される。その後六世紀中ごろに、内部主体に未発達の複室横穴式石室を持つ1号墳・4号墳・6号墳・8号墳が一五~三五メートルの距離をおいて相次いで造られる。六世紀後半代に入ると、完全な前室を持つ複室横穴式石室を主体部とし、それ以前に築造された古墳の空白地を埋めるように2号墳・5号墳・9号墳が築造される。その後七世紀代初頭まで、これらの古墳への追葬が盛んに行われたようである。2号墳では、玄室に一〇人以上が次々に、しかも整然と追葬されており、初期に埋葬された人骨は前室に移動されていることが判明した。また、副葬品をみると、農工具に比べ、大刀・鉄鏃に代表される武器が多い点に特徴がある。
 石室構築に伴う共通の特徴としては、丘陵上部の平坦面が少ないという地形に起因するのか、墓壙が一・五~二・〇メートルと非常に深く、石室の大部分が旧地表面下に築かれていて、天井付近の一部だけが地表面上に顔を出すというものである。また、石室は各時期ごとの変化の様子がたどれるが、周辺地域では六世紀初頭にみられる単室の横穴式石室が、当古墳群では存在しないことに疑問が残る。ただし、1号墳は複室横穴式石室としては非常に古い様相を示す。墓道については、すべて南東部の斜面側を向いている点が共通している。
 石室構築に使用した石材は、花崗岩の角礫が多く、小形の円礫については河原石が使用されている。河原石は東側二五〇メートルを走る祓川から運搬されたと考えられる。花崗岩は当丘陵周辺に巨岩が露頭しており、9号墳の西側と2号墳の南側に切り出した露頭があり、9号墳西側の露頭の北端には数個の石材が集積されていた。ただし、これらの遺構からは出土遺物がなく、明確な時期は不明である。