弥生時代から古墳時代にかけては、農業生産にかかわる単位集団は定住して生活するため、各集団の活動する領域がある程度決まっていたと考えられる。そして、大王の墓などの一部の例外的な土地利用を除くと、各集団の領域内には、水田などの生産地を中心に、生産に適さない地域に集落が営まれ、更に生産地にも集落にも利用されない地域に墓地が設定されることが一般的である。このような観点に立つと、水田が広がり、古墳が多数分布する地域の周辺には必ず集落が存在することが予想される。豊津町内でも祓川流域の徳永・呰見地区には、左岸の沖積地は水田となっていたと考えられ、右岸の河岸段丘上には多数の古墳が分布することが確認されていた。そして、近年の道路建設や圃場整備事業に伴い、右岸段丘上で源左エ門屋敷遺跡や呰見・カワラケ田遺跡など同時期の集落が発見された。古墳群が集中する節丸地区や甲塚地区などでも集落が分布する可能性は極めて高いと考えられる。
集落以外では、徳永地区で発見された初期須恵器を生産した窯跡は重要な遺跡である。また、二月谷祭祀遺跡なども注目される。