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遺跡の性格

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呰見遺跡・カワラケ田遺跡は一連の遺跡であり、最も遺構の数が多い時期は六世紀から八世紀にかけて、つまり古墳時代後期から奈良時代にかけてである。この時期の主な遺構は竪穴住居跡と掘立柱建物跡であるが、時期的には前者が六世紀後半から七世紀前半、後者が一部重複しながら八世紀前半まで継続している。このことは「この集落が従来の農業基盤型の集落から、豊前国府建設と軌を一にした『和名抄』所載の『呰見郷』へと変貌していったことを如実に物語る」ものと考察される。これは本遺跡の出土遺物の中に、硯や製塩土器があることからもうなずける。大宰府から豊前国府を経て宇佐八幡宮に向かう官道は本遺跡のわずか二〇〇メートル南を北西から南東に走っており、本遺跡から豊前国府政庁までは約一・三キロメートルの距離にある。更に、本遺跡の南東約三〇〇メートルの八ッ重遺跡からは平安時代初期の井戸などが発見されている。このことから、この一帯は本遺跡や源左エ門屋敷遺跡の集落や徳永川ノ上遺跡の古墳群が示すように、古墳時代後期(六世紀)以来大規模な集落が展開していたが、八世紀代に入って祓川を挟んだ隣接地に豊前国府が建設されるとともに、倉庫や廂付きの掘立柱建物が建設され、国府関連集落としての性格が付与され、更なる発展を遂げた。その結果として、平安時代に入っても継続して集落が営まれ、『和名抄』に「呰見郷」の名をとどめることとなったのであろう。ただし、本遺跡は呰見郷の前身の一部であり、その最盛期の集落本体はいまだ土中に埋もれたままである。