当遺跡の特徴を一口で言えば、弥生時代墓地群と古墳時代後期の横穴墓群、そして最古級の初期須恵器を焼いた窯跡である。出土遺物では、横穴墓から出た鈴と特に窯内から出土した〓である。この〓が考古学上にどんな問題を提起しているかを若干述べたい。
日本における初期須恵器の窯跡は、近年各地で確認されて一五か所を数える。かつて初期須恵器の窯跡は陶邑古窯址群の一須賀窯跡に限定されていたことから、田辺昭三氏は次のように述べている。「日本で須恵器生産が開始されたときから、地方窯が成立するまでの最初の数十年間、須恵器は陶邑とその周辺から、一元的に供給されていたということである。」(注1)とした。しかし、その後の調査の進展で、数多くの初期須恵器の段階の地方窯跡が発見された。当然矛盾が生じてきたのである。
その矛盾は、二点ほどに大きく要約される。(1)地方窯の成立の時期がさかのぼる点と(2)北部九州にみられるような、陶邑古窯址群とは異系譜と考えられる窯跡の存在が明らかになったことである。こうした点から、地方窯の成立は、これまでのようにすべてが陶邑古窯址群を経由することではなく、朝鮮半島から直接的に渡来した工人によって生産が開始され、日本における須恵器生産が「多元的」に行われたとする、いわゆる「多元論」の提唱が行われた(注2)。その多元論を援護する重要な発掘調査となったわけである。居屋敷窯跡(注3)は旧豊前国の海岸近くに位置し、地理的に影響が考慮され、瀬戸内と直結する。このことが意味することは今後多くの問題を提供する。
注1 田辺昭三「須恵器の誕生」『日本美術工芸』三九〇 一九七一年
注2 中村浩「須恵器生産の諸段階―地方窯成立に関する一試考―」『考古学雑誌』第六七巻第一号 一九八一年
注3 副島邦弘編『居屋敷遺跡』一般国道10号椎田道路関係埋蔵文化財調査報告書第6集 福岡県教育委員会 一九九六年