弥生時代終末から古墳時代初頭にかけて、当地域内の小地域を代表する首長層は、方形周溝墓や墳丘墓を営んでいる。一方、古墳時代の始まりとともに大和を中心とする連合政権にくみした、当地域全体を統括した首長はその死後(四世紀初頭)に石塚山古墳に埋葬された。この古墳は瀬戸内海西部の周防灘の海岸近くに立地し、墳丘は全長一一〇メートル、高さ九・五メートルで、前方部は先端がやや撥形に開く古い型式を残す(第46図)。内部主体は後円部中央にあり、長さ五・四メートル、幅約〇・九メートルの竪穴式石室である。棺は割竹形木棺の可能性がある。石室は寛政八年(一七九六)に開口されたのち、昭和十二年(一九八七)に本格的な発掘調査が実施され、三角縁神獣鏡七面以上(伝一一~一四面)と琥珀製勾玉一点・碧玉製管玉三点、素環頭大刀一振り・鏃二三本以上、小札革綴胄一領、鉄斧五点などが出土している。以上のように、石塚山古墳は墳丘・内部主体・副葬品の面で、まさに大和政権とのつながりの深さを示すとともに、この時期としては九州を代表する前方後円墳である。また、被葬者は三角縁神獣鏡も九州内で最も数多く保有していることから、単に地域の豪族というだけでなく、豊国の首長であることを示している。
第46図 苅田町石塚山古墳測量図(縮尺1/1,600)
続く四世紀後半に豊国を統括するような首長クラスの古墳としては、東国東の小熊山古墳が知られている。つまり、豊国の中心が一時的に京都郡から移動した可能性も考えられる。
一方では、小地域の有力集団の墓地に豊津町柱松古墳群がある。当古墳群中の一基は、墳丘が直径約二八メートルの円墳で、内部主体は大型箱式石棺と考えられている。副葬品には仿製の銅鏡二面と鉄剣四振り・鉄刀一振り・刀子五点などがある。古墳の築造場所から推定して、当古墳の被葬者は祓川中流域を代表する首長であろう。また、北方約八〇〇メートルに所在する行橋市竹並遺跡では、一〇メートル前後の規模の墳墓が多数調査されている。これらの内部主体は箱式石棺墓・石蓋土壙墓・土壙墓からなり、副葬品も少ないが、全体的には弥生時代後期終末から古墳時代中期の時期で、柱松古墳群の被葬者より勢力の弱い小集団の人々の墓地と考えられる。