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中期の古墳

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中期の五世紀後半代になると再び京都郡に大型の古墳が出現する。苅田町御所山古墳は石塚山古墳の南方約一・九キロメートルで、当時の海岸部に位置する前方後円墳である(第47図)。墳丘は全長一一八メートル、高さ一〇・五メートルで、周溝を含めた墓域は全長約一四〇メートルに達する。前方部は三段築成し、くびれ部には方形の造り出しを持つ。内部主体は後円部上位にあり、竪穴系横口式石室である。この石室は板石を四周に立てめぐらして障壁を設置し、床面には奥壁に並列して仕切り石で区画した二つの屍床を持つ特異な形態で、「筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)の統轄する筑肥地方の影響」があると考えられている。遺物は、石室内から四禽(きん)四乳(にゅう)鏡、硬玉製勾玉・棗(なつめ)玉・碧玉製管玉・ガラス製丸玉・金銅製雲珠(うず)などが出土し、墳丘では円筒埴輪などが採集されている。御所山古墳の出現は、豊国の大首長権が再び旧京都郡域の首長のもとに握られたことを示している。

第47図 苅田町御所山古墳(苅田町教育委員会提供)

 御所山古墳とほぼ同時期の旧仲津郡の首長の古墳に行橋市石並古墳がある。この古墳は海岸砂丘上に立地し、円形の墳丘に大型の造り出しを設ける。いわゆる帆立貝式前方後円墳である(第48図)。墳丘は二段築成で、全長六八メートル、高さ五・五メートルで、二重の周溝を含めると八〇メートル前後の規模になる。内部主体は不明であるが、墳丘には葺石や円筒埴輪が確認されている。

第48図 行橋市石並古墳墳丘測量図

 この時期大和政権の倭の五王による日本統一が進む一方で、大陸との関係が密になり、全国の大首長級の古墳が大きくなるのはみのがせない。御所山古墳もそのような時代背景の中に位置づけられる。御所山古墳の首長は豊国を代表する石塚山古墳の首長以降、その本拠地または奥津城(墳墓の地)を京都平野北部に置いていた。一方、京都平野南部で新しく頭角を現してきた石並古墳の被葬者はのちの仲津郡に相当する地域の首長である。
 やや時期が下って五世紀末には御所山古墳の北方約四〇〇メートルに苅田町番塚古墳が築造される。番塚古墳は墳丘が全長約五〇メートルとやや小型の前方後円墳であるが、竪穴系横口式石室の内部から神人歌舞画像鏡一面、勾玉六点・管玉三六点を含む玉類五八九点以上・金製耳環二点などの装身具、大刀三振り・矛七本・鉄鏃一三〇点以上などの武器、挂甲一領・胡簶(ころく)一個などの武具、馬具一組、鉄斧四点・刀子四点・鉇一点などの工具と金銅製飾金具、編み物片などとともに蟾蜍(せんじょ)形木棺飾金具が出土している。また、墳丘からは円筒埴輪も見つかっており、被葬者は豊国の大首長の系譜を引くものである。また、南部では吉富町楡生山古墳が五世紀中ごろの小型の前方後円墳(帆立貝式?)であり、直刀数振り・鉄鎗一本・鉄鏃二二本などの武器が出土し、墳丘からは円筒埴輪や家形埴輪の一部かと考えられる小片が出土している。更に、大平村下唐原の金居塚古墳は、全長六〇メートルほどの古式の前方後円墳であることが確認されている。
 一方、各地域の小集団も中葉から後葉に円墳を営んでいる。京都平野北部の海岸部では、苅田町松山古墳群・同町猪熊1号墳・同町新津原山古墳群などがあり、平野南部にも行橋市稲童古墳群が築造されている。また、内陸部では行橋市ビワノクマ古墳・勝山町箕田古墳群・犀川町長迫古墳・同町木山平1号墳などがある。これらの古墳の内部主体は箱式石棺や竪穴式石室と新来の竪穴系横口式石室があり、副葬品も稲童21号墳で短甲・眉庇付冑・鉄刀・馬具・鏡・三環鈴、ビワノクマ古墳で鏡や素環頭大刀・挂甲、長迫古墳でも鏡や直刀・短甲など豪華である。この時期、小地域の首長層も経済的に地力をつけていたものと推測される。