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後期の古墳

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六世紀代になると京都平野北部の当地域の代表的首長は、内陸部に後退し、古墳の規模も相対的に小さくなる。これは九州北部の諸豪族の強大化と、継体二十一年(五二七)の筑紫国造磐井の反乱を経験して、大和政権が安閑二年(五三五)に戦略的要所に設置した屯倉(みやけ)の影響と考えられる。屯倉は関東から九州に二六か所設置されたが、京都平野では北部の海岸部に肝等(かと)屯倉が置かれたため、在地豪族は海岸部での勢力拡大が困難になり、代わって内陸部の開発に取り組んだものと考えられる。この時期の京都平野北部の首長墓には行橋市八雷古墳(第49図参照)・勝山町庄屋塚古墳・同町箕田丸山古墳・同町扇八幡古墳などがある。

第49図 行橋市八雷古墳出土人物埴輪実測図

 一方、のちの仲津郡に相当する地域では、京都郡に相当する地域と比べると小規模な行橋市ヒメコ塚古墳・同市隼人(はやと)塚古墳・犀川町姫神(ひめがみ)古墳・豊津町惣社(そうしゃ)古墳などの前方後円墳が造られる。これらの古墳はのちの仲津郡域を支配した首長の墓と考えられる。ここで留意すべきことは、のちの仲津郡域における首長墓は石並古墳に始まり、それ以降首長墓が継続していることである。
 六世紀後半を過ぎると、首長たちが好んで造った前方後円墳は採用されなくなり、代わって首長たちは巨石を使った横穴式石室をもつ大型円墳や大型方墳を採用するようになる。京都郡では勝山町綾塚古墳(円墳・第50図参照)・同町橘塚古墳(方墳)が造られ、仲津郡では二重の周溝をめぐらす豊津町彦徳甲塚古墳(円墳)や長方形の墳丘をもつ同町甲塚方墳(方墳)が造られる。いずれも首長墓であるが、方墳を造った首長たちは大和政権内で力を発揮していた蘇我氏との関係を思わせる。また、豊国内において政治的中心地が旧京都郡から旧仲津郡へと変化したのも、まさに六世紀後半から七世紀初頭である。

第50図 勝山町綾塚古墳家形石棺実測図

 六世紀代には、小地域の集団の生産力も向上し、有力農民層が家父長制家族として自立し、各地に小円墳や横穴墓からなる群集墳を営むようになる。京築地域では苅田町法正寺地区から行橋市椿市地区や、勝山町黒田地区、御所ケ谷から馬ケ岳北麓、行橋市東部の覗山、豊津町節丸地区などに集中し、行橋市・京都郡内だけでも二〇〇〇基を超えると推定される。時期的には五世紀代後半から築造が始まり、七世紀初頭には新たな古墳の築造は減少する。行橋市渡築紫(とつくし)遺跡(第51図)や椎田町石堂中後ケ谷遺跡などでは七世紀後半まで築造されている。

第51図 行橋市渡築紫遺跡古墳全景写真
(行橋市教育委員会提供)