中期から後期にかけて継続して営まれていた集落は、七世紀前半代に衰退しいったん姿を消すものが多い。下稗田遺跡・源左エ門屋敷遺跡・タカデ遺跡・荒堀中ノ原遺跡などがこの傾向を示す。また、渡築紫遺跡・谷遺跡の集落は七世紀後半まで継続している。安武・深田遺跡の場合、七世紀に入ると大規模集落が突然消滅し、七世紀末から八世紀前葉にかけて再び小規模な集落が営まれている。
一方、七世紀前半代に新しく形成される大規模集落もある。豊津町金築遺跡は遅くとも八世紀後半代に豊前国の行政の中心地である豊前国府が建設される場所に広がる七世紀から八世紀にかけての集落で、住居跡が六五軒確認されたが、発掘調査地区外も含めると一〇〇軒前後に達すると推定される。
当地域ではまだ豪族の居館は発見されていないが、一般集落内では六世紀後半代には下稗田遺跡古・Ⅰ・47号住居跡、同古・I・52号住居跡のように、一辺の長さが七メートルに達する大型の竪穴住居が現れる。