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初期の古墳

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古墳時代初期の前方後円墳は、前方部が発達し、内部主体が竪穴式石室で、三角縁神獣鏡を副葬する傾向が強く、「畿内型」と呼ばれる定型化した古墳である。一方で、これに先行する墳墓に「纒向(まきむく)型前方後円墳」と呼ばれるものがある。この墳墓は「畿内型」前方後円墳に比べ相対的に墳丘が小型で、前方部に相当する部分が短く、後円部もややいびつな形態のものが多い。この墳墓については、古墳か、弥生時代の墳丘墓か意見が分かれる。北部九州でも同様の墳墓は近年幾つか発見されている。
 福岡市那珂八幡古墳は全長七五メートルと推定される「纒向型前方後円墳」で、中心主体部の隣に位置する埋葬施設は割竹型木棺を直葬したもので、三角縁神獣鏡と勾玉・管玉などが出土している(第54図)。筑紫野市原口古墳も全長約七五メートルの墳丘を持ち、木棺直葬の内部主体から、三角縁神獣鏡三面のほか直刀三振り・鉄斧四本と管玉・丸玉などの装身具を出土した。このタイプの墳墓は、北部九州では筑前の中央部から肥前の東部に分布し、築造時期が弥生時代終末から古墳時代初頭のごく短期間に限られている点に特徴がある。

第54図 福岡市那珂八幡古墳墳丘測量図

 「畿内型」前方後円墳には、苅田町石塚山古墳と大分県宇佐市赤塚古墳がある。赤塚古墳は全長五七・五メートルで、内部主体は長さ三・二メートルの箱式石棺である。副葬品は三角縁神獣鏡四面と三角縁竜虎鏡一面のほか、直刀や管玉が出土したといわれている。石塚山古墳の被葬者が豊前国北部に拠点を持ち、赤塚古墳の被葬者は大和連合政権に参加した豊前国南部を代表する豪族であったと考えられる。
 これら以外の主要古墳には、宗像市東郷高塚古墳(全長約六四メートル)・那珂川(なかがわ)町安徳大塚古墳(全長約六四メートル)・二丈町銚子塚古墳(全長一〇三メートル)・稲築(いなつき)町沖出古墳(全長約六八メートル)などの前方後円墳がある。