古墳時代中期になると、大和政権の支配下に入った各地の豪族は「県主(あがたぬし)」の身分を与えられる。『日本書紀』の景行紀・仲哀紀・神功紀などには、豊前国では長峡・上膳(かみつみけ)、豊後国では直入、筑前国では儺(な)・伊都(いと)・崗(おか)、筑後国では八女・水沼(みぬま)・山門(やまと)などの「県」の名称がみえる。大和政権が各地の豪族を服属させていく様子は、景行天皇十二年の条にも記されている。この時期、豊国の縁辺部に本拠地を持つ土着の首長層(宇佐の駅館(やっかん)川上流の鼻垂(はなたり)、上毛・下毛の山国川上流の耳垂(みみたり)、田河の彦山川上流の麻剝(あさはぎ)、紫川上流の土折(つちおり)・猪折(いおり))が畿内の大王に従わなかったことから、景行天皇は豊国の中央部に置かれた長峽県に行宮を建て、討伐していったといわれている。
また『豊後国風土記』では、景行天皇が九州に巡幸する際に随行した菟名手(うなで)は仲津郡中臣(なかとみ)村で瑞兆をみて、それを天皇に報告した。天皇は喜び、菟名手に「天(あま)の瑞物(しるしもの)、地(つち)の豊草(とよくさ)なり、汝(いまし)が治むる国は、豊国と謂(い)ふべし」と述べ、豊国直(とよくにのあたい)の姓(かばね)を賜った。この菟名手が豊国の国造の祖といわれている。