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石室の変化

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大型の「畿内型」前方後円墳などの内部主体には、棺を安置する空間として竪穴式石室が用いられている場合が多い。この竪穴式石室の起源は弥生時代の墳丘墓に求めることができ、弥生時代後期終末の岡山県真備(まび)町黒宮大塚では長さ二・二メートル・幅〇・九メートルの石室が主体部となっている。
 古墳時代に入ると竪穴式石室は「畿内型」前方後円墳を象徴する埋葬主体として全国に波及し、その規模も大きくなり、長大な割竹形木棺を納めるようになる。そして、棺の内外には武器、武具、工具、装身具、宝器など数多くの器具が副葬されるようになる。ただし、これらの古墳は前期の段階では大和政権の連合に参加した首長個人のための墳墓であり、当然内部の竪穴式石室も首長一人を埋葬するものであった。
 五世紀には中国や朝鮮半島との交流が深まり、新しい技術や文化が倭国にもたらされた。四世紀末から五世紀初頭の時期には、石室も新しい構造のものが導入された。佐賀県浜玉町谷口古墳は全長約九〇メートルの前方後円墳であり、後円部に合掌式天井構造を持つ竪穴式石室が二基存在し、石室の前方部側に横口と羨道が確認された。この石室が最古の竪穴系横口式石室と認められている。石室内には仿製三角縁神獣鏡四面・碧玉製腕飾り一一点のほか鏡三面・刀剣・玉類などが副葬され、四世紀末ごろの築造と考えられている。このほか、福岡市鋤先古墳の石室(第56図)も初期段階の竪穴系横口式石室であり、築造時期は五世紀初頭ごろと考えられている。床面は長さ三・四メートル、幅二・五~二・六メートルの長方形をなし、奥壁と左右両側壁に平行して三基の石棺が設置されている。側壁は板状の割石を内側に強く持ち送りながら小口積みし、石室と外部の羨道の間には一枚石を立てて閉塞している。このように、竪穴系横口式石室の特徴は、竪穴式石室の短辺の一方に開口部と通路を設けることにより、一石室内に複数の埋葬が可能になったことである。また、その起源は朝鮮半島中部のピョンヤンの四世紀中ごろの古墳にさかのぼることができるとされており、下って南部のソウル周辺の古墳にも採用されているという。

第56図 福岡市鋤先古墳石室実測図
(柳沢一男氏原図)

 五世紀後半代にはこの型式の石室は北部九州各地の首長墓に取り入れられる。構造も石室の最下部の壁石が大きくなり、羨門の両側壁に大形の立石を使用するなど、全体として堅固な作りになっていく。六世紀初頭には、羨道がしだいに長くなり、横穴式石室に変化していく。更に六世紀中ごろになると玄室の手前に前室を設ける、複室構造の横穴式石室が現れ、石室の長大化が一層進むことになる。