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在地豪族の変容

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五世紀代に直轄地として設置された「県」を拠(よ)り所とする豪族は、大和政権内の地方官である「県主」として、在地首長の権限を認められていた。その後六世紀代には、新しく地方の支配機構として国造(くにのみやつこ)制が導入される。北部九州では豊直・菟狭(うさの)(宇佐)公(きみ)・国前臣(くにさきのおみ)・宗形(むなかた)君・筑紫君などが国造となっている(第57図)。大和政権下の氏姓制度では、地方豪族には君・造・首(おびと)・直(あたい)・史(ふひと)などの姓(かばね)が与えられるが、北部九州の豪族は、支配地域に対して強い権限を伴う自立性の高い君(公)姓が多い。
 このように、六世紀初めごろには大和政権による九州の支配体制が完了する。この時期国内的には継体天皇の即位をめぐって、政権内部の混乱が続き、対外的にも朝鮮半島南部に確保していた勢力地盤である加羅(から)(任那(みまな))の四県が継体六年(五一二)に百済に割譲されるという事態が発生していた。北部九州の豪族は、五世紀代から大和政権の朝鮮半島進出に際して、先兵として徴用されるとともに物資の輸送などの負担も強いられていた。このような状況下、筑紫君磐井の乱は継体二十一年(五二七)六月、朝鮮半島の情勢に大和政権が敏感に反応し、近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)が六万の兵を率いて朝鮮半島に派兵しようとしたことに端を発する。新羅(しらぎ)はこれを察知して、北部九州に勢力基盤を持っていた筑紫君磐井に贈り物をして、近江毛野臣が率いる大和政権軍を阻止するよう依頼した。これを受けた筑紫君磐井は大和政権に戦いを宣言した。継体二十二年(五二八)十一月戦いに敗れた筑紫君磐井の墓として、八女市岩戸山古墳が比定されている。岩戸山古墳は前方後円墳で周溝や外堤をめぐらし、周堤に接して一辺四六メートルの方形の「別区」が造られている。墳長一三二メートル、周溝や外堤まで含めると全長一八〇メートルの九州最大の前方後円墳である。この古墳とほぼ時を同じくして、桂川町天神山古墳・飯塚市寺山古墳・勝山町扇八幡古墳・北九州市小倉南区荒神森古墳が築造される。これらの古墳はそれぞれの首長系列のなかで以前より大規模になっている。しかも周溝や外堤をめぐらすなど目を引く存在である。さらに、大和政権の直轄地として征服地に設置された屯倉(みやけ)の所在地にもかかわらず首長墓は大型になっている。ここには筑紫君磐井に勝利したものの、在地首長層に対してはその権力を認めざるを得なかった大和政権と筑紫の政治的状況を反映しているのではあるまいか。六世紀中ごろ首長墓が大きくなり周溝をもつ傾向は、けっして屯倉設置地区だけではなく宗像郡・伊都郡など北部九州では広くみられる。
 なお、この乱の後、安閑二年(五三五)に関東から九州にかけて二六か所に大和政権の直轄地である屯倉が設置される。北部九州には豊前国内の〓崎・大抜・肝等・我鹿・桑原、筑前国でも穂波・鎌・糟屋・那ノ津に屯倉が置かれ、支配の強化が図られた(第57図)。

第57図 北部九州の古代豪族分布図(『豊前市史』より)