古墳時代には大和政権や有力な地方豪族の経済力と技術力を背景に、高級消費財や、日常生活の各種道具や消耗品が、専業的集団によって生産されている。このうち、北部九州では須恵器や塩・鉄などの生産遺跡が確認されている。
須恵器は、当地方でも五世紀前半の国内でも最も古い時期から生産され始めている。須恵器を焼成する窯は「登り窯」と呼ばれる窖窯(あながま)で、六世紀後半になると継続的に多量生産されるため、窯跡が群集するようになる。五世紀代の遺跡では、福岡市新開窯跡・夜須町小隈窯跡・豊津町居屋敷遺跡などがある。これらの遺跡は短期間で衰退し、窯の数も五基以下にとどまっている。六世紀後半には大野城市・春日市・太宰府市にまたがる九州最大の牛頸(うしくび)窯跡群で生産が開始され、北九州市天観寺山(てんがんじやま)窯跡群・中津市伊藤田(いとうだ)窯跡群・八女窯跡群などの大規模な窯跡群が各地に形成される。これらの窯跡群では七世紀以降も須恵器の生産が続けられる。一方、豊前国内では築城町船迫地区の窯跡群や大平村友枝窯跡のように、古墳時代終末から奈良時代にかけて須恵器以外に古代寺院の瓦を生産する地方窯もある。
製塩土器は古墳時代には北部九州でも周防灘や別府湾・玄界灘・八代湾などの沿岸のほか、内陸部でも数多く発見されている。近隣では、北九州市の黒崎貝塚・浜田遺跡・亀ケ首遺跡などで発見されている。しかし、製塩を行った遺跡となると八代湾にやや集中する以外、全体的に少ない。福岡県内では福岡市今山下遺跡・同市海の中道遺跡が調査によって明らかな製塩遺跡である。今山下遺跡での生産は四世紀前半から五世紀前半ごろまでの時期幅が想定されており、土器の量からみて「自家消費的な家内生産」と考えられている。
古墳時代の製鉄に伴う炉が盛んに作られるのは六世紀後半代で、吉備地方において数多く発見されている。北部九州では岡垣町瀬戸遺跡・築城町松丸F遺跡などで製鉄炉跡が調査されている。瀬戸遺跡の製鉄炉跡は六世紀中ごろのもので、鉄滓の分析の結果、磁鉄鉱を原料としている。また、松丸F遺跡は七世紀初頭から七世紀末まで継続し、炉跡と燃料の炭焼き窯跡が確認され、砂鉄を原料とした製鉄炉である。