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律令の整備と中央集権国家

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皇極(こうぎょく)四年(六四五)、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智(てんじ)天皇)や中臣(なかとみの)(後に藤原)鎌足(かまたり)らが中心になって蘇我(そが)氏を滅ぼしたあと、年号を大化(たいか)として新たな政府の下で国政の改革が始められるが大化二年(六四六)正月朔日に次のような内容の「改新の詔(かいしんのみことのり)」が出された。
 其の一に曰く、昔在(むかし)の天皇等の立てたまへる子代(こしろ)の民・処々の屯倉(みやけ)、及び別(こと)には、臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)・村首(むらのおびと)の所有(たも)てる部曲(かきべ)の民・処々の田荘(たどころ)を罷(や)めよ。仍(よ)りて食封(へひと)を大夫(まへつきみ)以上に賜ふこと各差(しな)有らむ。(中略)
 其の二に曰く、初めて京師(みさと)を修め、畿内(きない)・国司・郡司・関塞(せきそこ)・斥候(うかみ)・防人(さきもり)・駅馬(はゆま)・伝馬(てんま)を置き、及び鈴契(すずしるし)を造り、山河を定めよ。(下略)
 其の三に曰く、初めて戸籍・計帳・班田収授の法を造る。(下略)
(『日本書紀』孝徳(こうとく)天皇条)
 其の四に曰く、旧(もと)の賦役(えつき)を罷(や)めて、田の調(みつぎ)を行ふ。(下略)
 右を基本理念に公地公民(こうちこうみん)制、中央集権的政治体制づくり、班田収授(はんでんしゅうじゅ)の法の実施、統一的税制の施行を柱に政治の改革が行われることになった。改革は天智二年(六六三)の百済(くだら)の救援(白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い)の失敗で一時的には停滞をみながらも、天智天皇は対外的な防備も固め、中でも「遠の朝廷(とおのみかど)」といわれた大宰府には水城の築堤をはじめ、大野城・基肄(きい)城・鞠智(きくち)城を築城して守りを固めた。
 これとは別に瀬戸内地方から北部九州にかけて神籠石(こうごいし)と呼ばれる山城が点在しているが、これらも新羅・唐の来寇を想定しての施設であろう。豊前地方では御所ケ谷神籠石がある。
 また天皇は諸制度の整備を行い、天智九年(六七〇)にはわが国最初の全国的な戸籍である「庚午年籍(こうごねんじゃく)」を作り上げた。
 その後壬申(じんしん)の乱(六七二)を経て即位した天武天皇は律令(りつりょう)官人機構の整備に力を注ぎ、更に「浄御原令(きよみはらりょう)」の編纂(さん)も始めた。持統三年(六八九)この令を諸司に頒布するなど天武・持統両天皇の時代に大化以来の中央集権国家建設の事業は完成に近づいた。その後この令を改定して律(刑法)を加え、大宝元年(七〇一)には『大宝律令(たいほうりつりょう)』が完成して、翌二年から施行され、更にこの律令は改訂されて(七一八)、『養老律令(ようろうりつりょう)』として施行された(七五七)。
 仏教については、宣化三年(五三八)に百済国より伝えられたのち、約半世紀にわたりその受容をめぐって奉仏派と反仏派との対立がみられたが、六世紀の終わりごろからは近畿を中心に根付き始め、大化元年には「仏教興隆」の詔が出された。特に天武・持統両天皇の仏教興隆政策によって、寺院の建立は広く地方豪族まで及び、豊前地方においても七世紀末から八世紀初頭にかけ仏教が伝播して初期古代寺院が建立されている。