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平城京遷都と律令制の動揺

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和銅三年(七一〇)、都は藤原京(ふじわらきょう)から平城京(へいじょうきょう)へと遷都し、奈良時代が始まる。しかしこのような律令による政治もその当初から動揺をみせており、養老七年(七二三)には「班田収授の法」に伴う口分田(くぶんでん)の不足から「三世一身法(さんぜいっしんのほう)」が出されて条件付きながら開墾地の私有が認められ、更に天平十五年(七四三)には「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」が出されて開墾地を永久に私有することが認められるなど公地制から崩れ始めた。このような法は農地の拡大を目的としていたが、実際には有力者(貴族・寺院・地方豪族)による土地の開墾と占有が進み、荘園(しょうえん)の形成が始められるようになった。いっぽう班田を耕作する農民は調(ちょう)・庸(よう)・出挙(すいこ)・雑徭(ぞうよう)などに苦しみ、逃亡や浮浪する者もしだいに多くなっていった。また政権の内部でも次に見るような陰謀・謀反・内乱など事件が相次いで起こり、不安と動揺が相次いだ。また天平八・九年には天然痘が大流行して貴族から農民まで苦しめた。
 〈奈良時代の主な事件・出来事〉
 ・養老四年(七二〇)…隼人(はやと)が大隅(おおすみ)国守を殺して反乱
 ・天平元年(七二九)…長屋王(ながやおう)に謀反の密告あるにより、窮問・自尽させる
 ・天平七年(七三五)…凶作。豆瘡(とうそう)(天然痘(てんねんとう))流行し、死者多数
 ・天平八年(七三六)…疫病・飢饉のため、租賦(そぶ)、公出挙(くすいこ)の利息を免ずる
            筑紫から疫瘡(えきそう)(天然痘)起こり、夏・秋全国にまん延、上下病死する者多数
 ・天平十二年(七四〇)…藤原広嗣(ひろつぐ)挙兵
 ・天平宝字七年(七六三)…昨年来の飢饉により、諸国の田租を免ずる
             旱害(かんがい)により、山陽・南海道節度使(せつどし)を停める
             正倉の神火により、諸国司を戒める
 ・天平宝字八年(七六四)…藤原恵美押勝(えみのおしかつ)の逆謀漏れ、近江国に走る。押勝誅(ちゅう)せらる
 ・天平神護元年(七六五)…和気王、謀反の疑いで誅せられる。この年、諸国飢饉
 ・神護景雲三年(七六九)…宇佐八幡神託(しんたく)事件
 ・宝亀元年(七七〇)…道鏡(どうきょう)を下野国(しもつけのくに)薬師寺別当として配流する
 このような状況の中で、天平十三年(七四一)聖武(しょうむ)天皇はうち続く不安・動揺・災禍を仏法の力で治めようと、国ごとに国分寺・国分尼寺を建立する詔を出し、都には盧遮那仏(るしゃなぶつ)の造立を発願して、天平勝宝四年(七五二)に大仏は完成した。しかし、国分寺・国分尼寺については各国情により完成はまちまちであった。豊前国については奈良時代半ば(七五六ごろ)には完成したものと考えられている。
 中央には二官八省、地方には国(こく・くに)・郡(ぐん・こおり)・(郷(ごう))・里(り・さと)制がしかれて、国府(こくふ)・郡衙(ぐんが)が置かれ、特に九州には大宰府が置かれるなど行政機構も整備された。また、豊前国ではほぼその中央部にあたる仲津郡国作に国府が設置された。
 律令政治が行われるようになった奈良時代は、既にさまざまな問題が派生してきたとはいえ、八世紀終わりごろまでは、それから後の政治動向を眺めても律令国家の最盛期にあたるとも考えられている。