大化以来の政治の流れの中にあって藤原氏は着実にその勢力を伸ばしていた。すなわち藤原鎌足の子不比等(ふひと)は『大宝律令』『養老律令』の編纂にあたって中心的な役割を果たし、娘二人(宮子、光明子)をそれぞれ文武天皇や聖武天皇の後宮に入れて天皇の外戚(がいせき)となり、その後の藤原氏繁栄のもとを築いた。
不比等の四子(武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ))も公卿となったが、それぞれ南家・北家・式家・京家の祖となり、平安時代にはこれらは「四門」または四家と呼ばれた。しかし天平九年(七三七)に天然痘が全国的なまん延をみせた際に武智麻呂ら四子は相次いで死亡し、北家を除く三家は平安時代初期までに政治的には衰退していった。
それに対して北家では貞観(じょうがん)八年(八六六)良房(よしふさ)が清和天皇の摂政となり、その子基経(もとつね)は光孝(こうこう)天皇の関白となったが、基経の子忠平の時期には摂政・関白の制が確立して摂関家(せっかんけ)は藤原氏に定着し、太政官(だいじょうかん・だじょうかん)の上に立って実権を掌握した。また、その間には策謀を用いるなどして橘・伴・紀(き)・菅原(すがわら)など他氏の排斥を行った。そして十一世紀初頭の道長(みちなが)とその子頼通(よりみち)のころには最盛期を迎えた。特に道長は四人の娘を皇后や皇太子妃にして、三〇年間朝廷で権力をふるい、頼通は五〇年にわたって三天皇の摂政・関白を務め、天皇の外戚として権力をふるい、多くの荘園の寄進も受けて栄華を極めた。
このような摂関政治の時代には摂政・関白は役人の任命権に深いかかわりを持っていたので、中・下級の役人は摂関家に付き従い、貴族たちも自分の地位と経済的な基盤の確保に熱心で、地方の政治も国司にゆだねるなどして政治の乱れに拍車をかけることになった。
関白頼通のあとの後三条天皇は荘園整理令を出して摂関家も含めて基準に合わない荘園の停止を行ったが、そのあと院政が始まり、白河・鳥羽・後白河三上皇(じょうこう)の一〇〇年余の院政の間には上皇が実権を握って政治を行ったので、摂関家は衰えをみせた。しかし院政のころも官職を金で売ることが盛んに行われたり、上皇の周りの院近臣(いんのきんしん)が豊かな国の国司に任命されたり、院へ寄進する荘園が増加するなどこの時期にもさまざまな問題がみられた。