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天皇遠征説話と郷土の豪族

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大和政権が九州の諸豪族を服属させていく様子は『日本書紀』の中にも天皇遠征説話という形で描かれている。景行(けいこう)天皇十二年九月条で豊国にかかわる部分を要約してみると、同年天皇が周防(すおう)国に到着したときに多臣(おほのおみ)の祖(おや)竹諸木(たけもろき)・国前臣(くにさきのおみ)の祖(おや)菟名手(うなて)・物部君(もののべのきみ)の祖(おや)夏花(なつはな)という使者を偵察に出すが、
 ・神夏磯媛(かみなつそひめ)という北九州の女酋が(天皇の使者が来ると聞いて)船上の賢木(さかき)に神宝の太刀・鏡・玉をつけ船の舳先に白旗を立てて服従を申し入れてくる。
 ・そのとき皇命に従わないといっている者を急いで征伐してほしいといって菟狭(うさの)(宇佐)川上(かわかみ)(駅館川(やっかんがわ)の上流)の山谷で君主の名をかたる鼻垂(はなたり)、御木(みけ)川(山国川)の川上に住んでしばしば人民から掠奪する耳垂(みみたり)、高羽(たかは)の川上(彦山(ひこさん)川の上流か)でひそかに徒党を組む麻剝(あさはぎ)、緑野(みどりの)の川上(紫川)の険阻な土地にかくれ住む土折(つちおり)・猪折(いおり)などの名をあげる。
 ・そこで武諸木(たけもろき)等(ら)は計略をもって麻剝らをことごとく捕らえて殺す。そして天皇は九州へ上陸し、豊の長峡県(ながおのあがた)に行宮(かりみや)を建てて滞在したので、そこを「京(みやこ)」と名付けた。
という内容であり、このときの征伐は九州のほかの地方にも及んでおり、さまざまな形で各地の豪族を服従させていく様子が述べられている。このような説話は正確に事実を記述したものとは考えられてはいないが、しかし「畿内大和に発生した王権は四、五世紀を通じて列島各地の政治勢力を統属下におくようになり、五世紀末のワカタケル大王(雄略天皇)のころには、大和政権の版図(はんと)は西は中部九州から東は関東まで及んでいた」(新版「古代の日本」①古代史総論、鎌田元一、角川書店)と考えられ、豊前・豊後地方はもとより九州各地の豪族が古墳時代中期に相当するこの時期に次々と大和政権の傘下に組み入れられたことは確かであり、説話も大筋ではこのことを示唆するものであろう(第1図参照)。

第1図 豊国の豪族分布図