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「長峡県(ながおのあがた)」と「京(みやこ)」

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『日本書紀』はまた「天皇(すめらみこと)、遂(つひ)に筑紫(つくし)に幸(いでま)して、豊前國(とよのくにのみちのくちのくに)の長峽縣(ながおのあがた)に到(いた)りて、行宮(かりみや)を興(た)てて居(ま)します。故、其(そ)の處(ところ)を號(なづ)けて京(みやこ)と曰ふ。」(景行天皇十二年九月条)として、景行天皇が九州遠征の第一歩として行橋市延永(のぶなが)と考えられる長峡県に仮の宮殿を建てて滞在したため、そこを「京(みやこ)」と名付けたとして、京都郡名の起源を述べている。県は大和政権の傘下に入った地方の豪族が県主(あがたぬし)に任命された際、自らの支配地の一部を割いて朝廷に献上したものであるが、県制は五世紀後半をさかのぼらない時期に成立したとされている。五世紀後半のこの地方をみた場合、この長峡県とは地理的に近く、しかも豊国では最大の古墳である御所山古墳(前方後円墳、五世紀後半、苅田町与原)が築造されているが、被葬者はこの地方でも最大の勢力を誇る豪族であったと考えられる。長峡県の設置時期とこの豪族の活動時期が近接していて注目される。