豊国の名の起源について『豊後国風土記(ぶんごのくにふどき)』には次のような説話がみられる。景行天皇が九州を巡幸する際に豊国直(とよくにのあたひ)等(ら)の祖菟名手(うなて)は天皇に随行してその先駆を務める。中臣(なかとみ)村(現行橋市草場(くさば)に比定する意見がある)に往き着いたときに日が暮れて宿泊するが、明くる日の朝になって次のような瑞兆(ずいちょう)をみる。
「忽(たちま)ちに白き鳥あり、北より飛び来たりて、この村に翔(かけ)り集(つど)ひき。菟名手、即(やが)て僕者(やっこ)に勒(おほ)せて、其の鳥を看(み)しむるに、鳥、餅(もちひ)と化為(な)り、片時(しまし)が間(ほど)に、更(また)、芋草数千許株(いもいくちもと)と化(な)りき。花と葉と、冬も栄えき。」
そこで菟名手は「化生(なりかは)りし芋は、未(いまだ)曾(むかし)より見しことあらず。実(まこと)に至徳(みめぐみ)の感(ひびき)、乾坤(あめつち)の瑞(しるし)なり」といって、奏聞したところ、天皇は歓喜して菟名手に勅して「天(あめ)の瑞物(しるしもの)、地(つち)の豊草(とよくさ)なり。汝(いまし)が治むる国は豊国と謂(い)ふべし」といわれて、重ねて豊国直(とよくにのあたひ)の姓を与え、そこでその治める国を豊国ということになったというのである。
豊国の名の起源についての説話であるが、菟名手に直が与えられたとする記事は検討を要するけれども、直という姓はその成立が五、六世紀のころと考えられていて、このころ国造(くにのみやつこ)の地位を認められた地方豪族に一律に与えられたものであろうとされる。
菟名手の子孫はその後も豊国の国造として勢力をふるったと考えられる。