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筑紫君磐井(つくしのきみいわい)と豊(とよ)の豪族

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古代国家の形成期ともいわれる古墳時代後期初頭の継体(けいたい)二十一年(五二七)、筑紫君磐井は大和政権が新羅(しらぎ)に蚕食された任那(みまな)の失地回復のために派兵する近江毛野臣(おおみのけぬのおみ)率いる六万の軍をさえぎり、肥(熊本県辺り)・豊(福岡県北東部)の豪族を勢力下に置いて乱を起こした。新羅は磐井に賄賂(わいろ)を贈り渡海軍の阻止を依頼していたという。天皇はこれを鎮圧するために物部麁鹿火(もののべのあらかひ)を征討将軍として九州に向かわせるが、戦いは二年にわたり、翌二十二年(五二八)に御井郡(久留米付近)の決戦後、筑紫君磐井を切ってこの反乱は終わりを遂げたという。しかし『筑後風土記』逸文では、磐井は上膳県(かみつみけのあがた)(上毛郡)に逃れて「南の山の峻(さか)しき嶺(みね)の曲(くま)に終(みう)せき」とあり、食い違いをみせているが、勢力下にある「豊」の豪族を頼りに遁走して来て姿を隠すことは考えられないことではない。この筑紫君磐井の本拠地である筑後との関係がとりざたされている古墳に御所山古墳(苅田町与原、前方後円墳、五世紀後半)がある。主体部の石室には石障が設けられ、いわゆる肥後型と呼ばれる石室構造であり、被葬者は当時「豊国」の屈指の大首長であろうが、乱にさかのぼる五世紀後半ごろには既に筑後文化圏との交渉があったのであろう。
 磐井の乱のあった六世紀前半の大型古墳としては扇八幡古墳(勝山町箕田、前方後円墳)がある。全長五三メートル、後円部の高さ七メートルで周濠がめぐるが、被葬者はこのころの豊国の大首長であったと考えられる。