磐井の乱の鎮圧後の大和政権による地方支配は一層強化されていく。安閑(あんかん)二年(五三五)の屯倉の設置もその一つある。それは大和政権が一定範囲の土地を排他的に占有するものであるが、関東から九州にかけて二六か所に設置され、そのうち九州では筑紫国二、豊国五、火国一となっている。具体的にその屯倉をみると次のとおりである。
筑紫国 穂波屯倉(ほなみのみやけ)(福岡県嘉穂郡穂波町・桂川町等 旧穂波郡)
鎌(かま)屯倉(福岡県嘉穂郡 旧嘉麻郡)
豊国 〓崎(みさき)屯倉(福岡県北九州市門司区 旧企救郡)
大抜(おおぬく)屯倉(福岡県北九州市小倉南区貫 旧企救郡)
肝等(かと)屯倉(福岡県京都郡苅田町等 旧京都郡)
我鹿(あか)屯倉(福岡県田川郡赤村 旧田河郡)
桑原(くわはら)屯倉(福岡県築上郡築城町 旧築城郡)
火国 春日部(かすがべ)屯倉(熊本県熊本市国府付近 旧託麻郡)
以上のように豊国の五屯倉の設置は異常ともいえる数であるが、筑紫君磐井の反乱の際には豊国の豪族も盟主であったとされる磐井に加担したとされており、これら豪族の勢力に対する抑圧と交通路の分断、更には折からの朝鮮半島情勢の緊迫化に対処するための軍事的基地の確保も考慮してのことであろう。