ビューア該当ページ

西日本の古代山城

368 ~ 370 / 1391ページ
現在確認されている神籠石や文献に残る西日本の古代の山城は二〇か所を超えている。そのうちの幾つかは、天智二年(六六三)の白村江海戦での敗退を受けて、侵略に対する対外的な危機感から七世紀後半代に急速に造営されたものである。この防衛体制の整備の様子は、『日本書紀(にほんしょき)』・『続日本紀(しょくにほんぎ)』などに次のような記録が残っている。
天智三年(六六四) 対馬嶋(つしま)、壱岐(いき)嶋、筑紫国(つくしのくに)等(ら)に防(さきもり)と烽(すすみ)とを置く。また筑紫に大堤(おおつつみ)を築(つ)きて水を貯(たくは)へしむ。名づけて水城(みずき)といふ。
天智四年(六六五) 達率(だちそち)答〓春初(たふほんしゅんそ)を遣(まだ)して城(き)を長門国(ながとのくに)に築(つ)かしむ。達率(だちそち)憶禮福留(おくらいふくる)、達率(だちそち)四比福夫(しひふくぶ)を筑紫国に遣して大野(おほの)及び椽(き)、二城(ふたつのき)を築(つ)かしむ。
天智六年(六六七) 倭国(やまとのくに)の高安城(たかやすのき)、讃吉国(さぬきのくに)山田郡(やまだのこほり)の屋嶋城(やしまのき)、対馬国(つしまのくに)の金田城(かなたのき)を築(つ)く。
天武八年(六八〇) 初めて関(せき)を竜田山(たつたのやま)、大坂山(おほさかのやま)におく。よって難波(なには)に羅城(らじゃう)を築(つ)く。
養老三年(七一九) 備後(きびのみちのしり)国安那郡(やすなのこほり)の茨城(うまらのき)、葦田郡(あしだのこほり)の常城(とこのき)を停(とど)む。
 これらの記事から、大野城・基肄城などの幾つかの山城は、朝鮮半島の百済から渡来した官人層の指導のもとに築城されたことが分かる。また、大宰府を西海道の要塞(ようさい)とし、瀬戸内海沿岸の各要所に城を配置するなど、国家的事業として構想が練られたものと考えられる。しかし、七世紀末には朝鮮半島の政情が安定し緊張が緩和されるとともに、八世紀代に入ると多くの山城が機能を停止し、廃止されることとなった。
 現在各遺跡で発掘が進められているが、太宰府市大野城は最も調査・研究が進展している山城である。遺跡は大宰府政庁北部の標高約四一〇メートルの四王寺山に立地する。城は尾根に沿って土塁を、谷部では石塁を、総延長約六・五キロメートルにわたってめぐらしている。城門は南部に三か所、北部に一か所発見されており、城内には礎石群が七か所に分布している。礎石群は七〇棟分以上に達する総柱建物の倉庫群である。この大野城は水城・基肄城と連携して、大宰府の防衛に備えた山城である。