第3図 御所ケ谷神籠石地形測量図(行橋市教育委員会提供)
分布調査によって、遺跡は約二・九キロメートルとの石塁または土塁を持ち、雄大な石垣を築く中門には通水用の石樋(水門、第4図)が併設され、この中門を挟んで東西に各二つずつと、南部の山稜に二つの合計七か所の門が設置されていることが知られた。また、中門の南西約一〇〇メートルには建物の礎石も残っている。当遺跡の調査は一九九三年(平成五年)から実施され、土塁のトレンチによる発掘や中門石塁の測量が継続して実施されている。土塁は版築によって築かれ、幅七メートル・高さ五メートルに達し、基底部には花崗岩の方形の切石が整然と並べられていた。中門南西の礎石建物は、梁間三間(約五・一メートル)・桁行四間(約八・一メートル)の総柱建物で、建築時期は不明であるが高床倉庫の可能性がある。当遺跡はこの土塁で囲まれた範囲が約三五万平方メートルに及び、古代の山城のなかでも比較的大規模な遺跡である。
七世紀後半における御所ケ谷神籠石の立地環境を概観すると、北部の沖積地には京都郡の条里が施行され、条里南部の里界線上には、東西方向に西海道の田河道が通っていた。この時期にはまだ豊前国府の政庁は造営されていなかった可能性が高いが、国府の前身となる大規模集落が東方約五キロメートルの位置にある。国府との密接な立地環境は、筑後国府と高良(こうら)山、肥前国府と帯隈山、備中国府と鬼ノ城(きのじょう)、讃岐国府と城山など数キロメートル以内に近接する例が多いことが知られている。御所ケ谷神籠石の場合も、大宰府方面から豊前国の中心部に至る要地に立地し、人馬の移動を確認しやすい高所に営まれている。
第4図 御所ケ谷神籠石水門(行橋市教育委員会提供)