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仏教の伝来と広がり

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日本に仏教が伝えられたのは宣化三年(五三八)のこととされているが、これは朝鮮半島の百済国の聖明王(せいめいおう)から欽明(きんめい)天皇に対して釈迦(しゃか)像・幡(ばん)・経典などが贈られたことを指している。神祇(じんぎ)信仰のあった日本では、その後、仏教の受容の可否をめぐって朝廷の有力豪族の間で争いが繰り広げられている。すなわちそれを受け入れようとする奉仏派の蘇我(そが)氏と神祇信仰を重視し他国神をあくまで受け入れまいとする反仏派の物部(もののべ)氏・中臣(なかとみ)氏との対立である。
 一連の動きを年次に追ってみると、次のような経過をたどっている。
五三八(宣化三年)………………百済の聖明王、朝廷に仏像・経論(きょうろん)を贈る。(仏教の公伝)
五五二(欽明十三年)(十・一) …百済の聖明王、金銅(こんどう)仏・経論等を天皇に贈る。
                大臣(おおおみ)蘇我稲目(いなめ)、その家を寺とする。
                物部尾輿(おこし)ら、疫病流行のため仏像を難波(なにわ)の堀江(ほりえ)に捨て、寺を焼く。
五七七(敏達六年)(十一・一)…百済王から贈られた経論・僧尼・呪禁師(じゅこむのはかせ)・仏工・寺工を難波の大別(おおわけ)王の寺に置く。
五八四(敏達十三年)………… 蘇我馬子が鹿深臣(かふかのおみ)・佐伯連の所有していた弥勒(みろく)石像ほかを安置して、司馬達等(しばたつと)の娘(善信尼)ら三人を出家させる。馬子、石川宅を仏殿とする。
五八五(敏達十四年)(二・十五)蘇我馬子、塔を大野丘の北に立てて、柱頭に仏舎利を納める(日本書紀)。
                   豊浦前に塔柱を立てて大会を営む(元興寺縁起)。
          (二・二十四)……………馬子、病気にかかる。疫病大流行。
          (三・一)…………………物部守屋(もりや)ら、崇仏の祟(たた)りを奏上し、天皇は廃仏の詔を下す。
          (三・三十)………………守屋が塔を倒し、仏像・仏殿を焼き、尼僧を拘禁する。残りの仏像を難波の堀江に投棄する。
五八七(用明二年)(四・二)……天皇・仏教を信仰する。蘇我馬子と物部守屋、崇仏の可否を争う。
   (七・一)…………………馬子・聖徳太子ら、守屋を滅ぼす。
五八八(崇峻元年)………………この年、百済、恵忩ら六僧と恩率首真ら工人に添えて、金堂の図を送り来る(元興寺縁起)。百済から、僧侶(そうりょ)・仏舎利(ぶっしゃり)・寺工(てらたくみ)・露盤博士(ろばんのはかせ)・瓦博士(かわらのはかせ)・画工(えかき)を贈られる。蘇我馬子、百済僧から受戒し、学問尼善信らを百済に派遣する。飛鳥の真神原(まかみのはら)に法興寺(飛鳥寺)を建て始める(日本書紀)。
五九四(推古二年)(二・一)……聖徳太子、蘇我馬子に仏教興隆の詔を下す。
(『日本文化史総合年表』岩波書店 一九九〇から抜粋)
 用明二年(五八七)物部氏が滅ぼされたあと、崇峻(すしゅん)元年(五八八)には日本最初の本格的な寺院である法興寺(飛鳥寺(あすかでら))が蘇我氏によって奈良県南部飛鳥の地に建立され始めた。
 更に推古(すいこ)二年(五九四)には推古天皇の摂政であった聖徳太子から蘇我馬子に「三宝興隆」の詔が出されると中央の豪族たちも競って寺院の建立を始めたと伝えている。稲垣晋也氏の調査では、飛鳥時代の寺院数六二のうち大和(やまと)二七・山城(やましろ)六・河内(かわち)一五・摂津(せっつ)五・近江(おうみ)三・播磨(はりま)一・備中(びっちゅう)三・安芸(あき)一・武蔵(むさし)一となっており、仏教が近畿地方を中心にしだいに根付き始めたことをうかがわせる。
 また、長い間仏教に対して中立的な立場を取り続けていた天皇も、舒明(じょめい)天皇が仏教に帰依し、百済大寺の造営を始めて、仏教はまた転換期を迎えることになった。
 大化元年(六四五)には、「仏法興隆」の詔が出されて、蘇我氏滅亡のあと天皇自らが仏法興隆の主導権を握り、僧尼の管理機構の整備なども行われた。このあと「仁王会(にんのうえ)」などの仏教行事が宮廷でも行われるようになっていったが、特に天武・持統天皇の仏教興隆政策は「金光明経」を読唱・講読させたように「鎮護国家」の仏教政策を推し進めることになった。これは旧来日本の神祇信仰にない国家の概念を仏教の中に求めようとしたものである。そしてこの時期の寺院建立は地方豪族まで及んで、ほぼ日本全国に建立された寺院は五九二か寺に達したといわれる。