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上坂廃寺跡の遺構・出土品

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前出のように多くの問題点が残されている寺院跡ではあるが、塔心礎(とうしんそ)については黒瀬仁六氏の実測調査の後、昭和二十七年(一九五二)には原口信行氏が再び発掘調査を行っている。その後昭和五十八年には上坂地区が県総合パイロット事業によって圃場(ほじょう)整備の行われる際に、遺構確認調査が行われた(第6図参照)。現在までに出土・確認されている遺構や出土品には、次のようなものがある。

第6図 上坂廃寺跡試掘溝と出土遺物図(昭和56年)


上坂廃寺伽藍配置予想図

 塔心礎石、礎石(柱座のあるもの)、百済系軒先丸瓦、重弧文軒先平瓦、太宰府系軒丸瓦(のきまるがわら)・軒平瓦(のきひらがわら)、単弁七葉軒丸瓦、鴟尾(しび)片(第8図、グラビア)、土師器(はじき)、緑釉(りょくゆう)陶器片

第8図 上坂廃寺出土鴟尾片

このうち主な遺構・出土品についてみることにする。
  (1) 塔心礎
    長径二・八メートル、短径二・二メートルの花崗岩で、中心部に直径八五センチメートル、深さ二二センチメートルの穴が、更にその中央部に直径一七・六センチメートル、深さ一一・四センチメートルの舎利孔(しゃりこう)がある(二重枘穴(ほぞあな))。地山を掘り込んだ壙中(こうちゅう)に版築(はんちく)して据える。周囲には基壇(きだん)跡は認められない(第9図)。

第9図 上坂廃寺塔心礎実測図(九州考古学第59号より)

  (2) 出土瓦
   ・百済系単弁八弁蓮花文(たんべんはちべんれんげもん)軒丸瓦
    豊前地方に広く分布しており、近くでは椿市(つばきいち)廃寺・木山(きやま)廃寺からも出土している。この瓦は重弧文軒平瓦とセット関係をなしていると考えられており、七世紀後半ごろと推定されている(第7図の1)。
   ・大宰府系(老司式)単弁十複弁十九弁蓮花文軒丸瓦
    豊前国府・豊前国分寺跡からも出土しているが、蓮弁・珠文(しゅもん)・凸鋸歯文(きょしもん)などがすべて一致するので、同笵の可能性が強い(第7図の2)。
   ・扁行唐草文(へんこうからくさもん)軒平瓦
    凸鋸歯文・珠文の数・唐草の流れの方向や特徴から三種類に分類されている(第7図5・6・7)。
    このうち6は豊前国分寺跡からも出土しており、7は木山廃寺跡(犀川町)からも出土している。
    2の軒丸瓦とこの軒平瓦類はセットをなし、製作時期については、八世紀中ごろのものと考えられている。
   ・単弁七弁軒丸瓦
    昭和五十八年の調査時に新しく発見されたもので、九州では他に例がない。文様構成や技法から九世紀前半代に想定されている(第7図3)。

第7図 上坂廃寺跡出土瓦(九州考古学第59号より)

  (3) 遺構
   ・金堂(こんどう)跡
    塔心礎の心々から西側に二五メートルから四五メートル離れた地域に瓦溜(かわらだま)り溝に囲まれた区画があった。南北に設けた試掘溝でも外幅二七・五メートル、内幅一七・五メートルの区画が認められ、塔との関係から金堂ではないかと推定されている(第6図参照)。
   ・講堂跡
    心礎の北側に二七・五メートルと三五メートルの二地点で礎石が出土し、あとの礎石には柱座が造り出されていた。この礎石の西側二〇~三〇メートル地点でも以前に礎石が出土したといわれ、塔と金堂の位置関係から、ここが講堂跡と推定されている(第6図参照)。