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筑紫島四国から筑紫七国へ

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『古事記』神代巻の大八島(おおやしま)誕生の記述に「…つぎに筑紫島(つくしのしま)を生みき。この嶋もまた、身一つにて面四つ有り」として筑紫国・豊(とよの)国・肥(ひの)国・熊曾(くまその)国をあげている。九州全体を筑紫嶋と呼び、その中を四つの国に分けているが、これは大化改新以前での九州の地域区分であった。九州という呼び名のもとになる九国がすべて誕生するのは奈良時代になってからであり、その前の段階では七国であった。すなわち先の四国のうち筑紫国・豊国・肥国がそれぞれ前後に分けられて律令政治に向けての新しい国割りが行われ、また熊曾国といわれたところから日向(ひゅうが)国が生まれて「筑紫七国」が成立した。
 『続日本紀(しょくにほんぎ)』の大宝(たいほう)二年四月の条に「筑紫七国と越後国とをして采女(うねめ)・兵衛(ひょうえ)を簡点(えら)ひて貢せしむ」とあり、このとき既に七国が置かれていて国郡制による統治が実現しつつあったことが分かるが、しかしその成立がさかのぼっていつの時期であったのかについては意見が分かれている。地方の行政区画である国の成立については、それぞれの国が文献などにいつ初見できるかなどが有力な判断材料となるが、そのことに関連して志方正和氏は国の設置は六年ごとに戸籍を作るその造籍年を考えて行われ、その造籍年の前年に行われたであろうと推定している。戸籍の作成によって民衆を把握し、それに基づいて班田収授を行い、更にそれが税制とも結び付くものであるとすれば、それに先立っての国家による行政区画の策定は当然なされることであろう。