筑紫七国の初見とそれに近い造籍年をまとめると次のようになっている。
(各国の初見) (造籍年)
六九六年(持統十) 肥後国 六九〇年(持統四)
六九八年(文武二) 筑前国・豊後国・日向国 六九六年(持統十)
七〇二年(大宝二) 豊前国 七〇二年(大宝二)
七〇七年(慶雲四) 筑後国 七〇八年(和銅元)
七四〇年(天平十二) 肥前国 七一四年(和銅七)
右によると筑紫七国の中で初見の最も早いのは持統十年(六九六)の肥後国であるが、文武二年(六九八)までには筑紫・豊・肥三国はすべて前後に分割されているので、先の造籍年と関連して考えれば、四国から七国への分割は持統九年(六九五)かその前の持統三年(六八九)ということになるが、河野房男氏は「筑紫大宰の下限は持統八年の六九四年である。したがって九州七国の成立は六九四年以降になる」として、持統十年(六九六)が造籍年になるので、その前年の持統九年(六九五)を筑紫・豊・肥各国の分置(分割)としている。一方、長洋一氏は「六八九年(持統三)に浄御原令が成立し施行されることになった。ところがこの浄御原令の施行に伴って、九州の筑紫国・火国・豊国はそれぞれ前後の国に分割された。それは浄御原令を施行して律令国家を確立するための措置といわねばならない」としている。このように分割の時期は特定しにくいが、おおよその年代は推定できよう。
豊前国の初見は大宝二年(七〇二)であるが、もとは豊後国と合わせて豊国とされていた地域も筑紫・肥国と同様に同じ年に前後に分かれたのである。七国の誕生したあと、大宝元年に日向国から薩摩(さつま)国を分割し、更に和銅六年(七一三)には再び日向国から四郡を割いて大隅(おおすみ)国が成立して九国となり、壱岐(いき)・対馬(つしま)・多〓(たね)の三島を加えて九国三島制ができあがった。なおこの体制は平安初期の天長(てんちょう)元年(八二四)に多〓島司が停止されて大隅国に属するまで続いた。