大化以後に中央集権国家の建設が推し進められ、中央・地方の行政機構が整備されていくなかで、九州地方には九国三島が成立したが、特に九州には大宰府が置かれて外交・防備および九州全域の行政を総管することになった。律令制での行政は中央政府による諸国直轄が原則であるためにこれは異例なことであった。大宰府の成立までにはその前史があり、まとめると次のようになる。
〈大宰府関連略年表〉
・宣化元年(五三六)………那津(なのつ)の口(博多付近)に官家(みやけ)を修造し、諸国の屯倉(みやけ)の穀を運び非常に備える。
(朝鮮半島での新羅の優勢と百済の劣勢という情況下で軍事的拠点)
・推古十七年(六〇九)……筑紫大宰の初見(筑紫大宰が創設されたか)
・天智三年(六六四)………対馬・壱岐嶋に防と烽とを置き、筑紫に大堤を築いて貯水し、名を水城(みずき)という。
(白村江の戦いで百済・日本軍が唐・新羅軍に大敗するという情勢下で筑紫大宰に国防と九州全体の政治を掌握させること)
・持統三年(六八九)………筑紫に遣使して、新城(政庁・諸施設か)を監せしめる。筑紫の官人に冠位授与・辞令交付。
・持統四年(六九〇)………大宰・国司を選任する。(筑紫大宰府の正式な発足)
・大宝元年(七〇一)………地方行政は国司制とし大宰は廃止。大宰府の官制・職制が完備する。