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豊前国府をめぐる学説

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このようにさまざまな豊前国府所在地が考えられているが、『太宰管内志』『豊前遠鏡』の仲津郡または(仲津郡)国作を除けば、ほとんどが京都郡・古へ国府京都郡か草場としている。
 このような文献を基礎に、現在まで主として歴史地理学的な立場から豊前国府の所在地について幾つかの意見が出されてきた。それは条里や地名とその周辺の古代寺院・官道・港など主な遺跡との関係を踏まえてのものであった。豊前国府については次のような学説がある。
 ・藤岡謙二郎…国作説(旧仲津郡)。国作の集落に「惣社」「御所」「古門」「中小路」「喜蔵」などの国府跡にみられる小字名があり、近くに国分寺跡があること。また推定府域周辺の条里と方位が異なることなどをあげ、方四町から六町の府域を考える。
 ・木下良………国作説。国府に最も関係深い総社(当地では惣社)が、国分寺に近い国作の地にあること。
        祓川流域一帯の条里制土地割りと国府推定域の方位の異なること。小字馬場(ばば)・荒堀(あらぼり)付近に多量の土師器・須恵器の破片の認められること。布目瓦と思われる小片を採集したことなどをあげ、方六町の府域を想定する。
 ・平野邦雄……第一次国府は津熊(旧京都郡)説、第二次国府は草場説(京都郡)。
        津熊(現行橋市)付近に広がる方一〇町の地割り(N15°W)が周辺の京都郡条里と異なることから、次のような根拠でここを初期豊前国府とした。
        (1)景行紀(日本書紀)の中の「長峡県」は京都郡のことであり、草野津近くに建てられた景行天皇の行宮の地に国府が設置された。
        (2)天平十二年(七四〇)の藤原広嗣の乱の「豊前国京都郡営」の記事(日本書紀)は、軍団が京都郡内に配備されていたことを示し、郡営は国府内に置かれていた。
        (3)天平十八年(七四六)の官符(『類聚三代格』巻十六、延暦十五年十一月二十一日)にみえる「豊前国草野津」(現行橋市草野、旧京都郡)は国府の外港であった。
        (4)恒富八幡(行橋市上津熊(かみつのくま)字土井元)は京都郡条里の一条の起線上にあり、これは国府八幡が注目される。
        第二次国府の草場はそこに国府が移転したという理由について、「天平時代以後は特に政府と宇佐との関係が緊密化し、平安時代に宇佐和気氏の派遣となったが、国家の大事には必ず遣使祈請が行われ、また神人の参洛も多くなると、豊前における政治的中心は山国川以北より山国川以南に移ったといってよいであろう。国府の移転がおこなわれたとすればかかる大勢のもとに理解しなければならない」として、更に「宇佐使は(港としての機能を失った草野津ではなく)今井津に上陸し、草場(祓郷村)に至り、豊日別(とよひわけ)宮(官幣(かんぺい)宮)から在庁官人・神官を率いて神輿を発し、宇佐宮に参向したという。…大宰府→(田河駅)→祓郷→宇佐に至る官道が重要化し、官道の要地を占める祓郷が豊前国府地とされる理由もここに生まれよう」と述べている。
 ・木原武雄……初期国作説、後に草場移転説。
        『和名抄』の国名下注の国々の中で豊前を除く以外の諸国(筑前・筑後・豊後)は、国府伝承地と『和名抄』所載の郡とが全く一致するが、郡名下注の国々(肥前・肥後・大隅・日向・壱岐・対馬)では『和名抄』所載郡域内にも伝承国府とは違った国府跡の想定が考えられ、また伝承地と同書所在郡とが同一な場合においても別地にそれが認められるとし、『和名抄』編纂当時既に国府の移転が行われたと解されるのに対し、前者(国名下注の国々)ではなお創設地に存続して移動をみなかったという仮説が成り立つとする。そして「(豊前国府の場合は)郡域の変更以外にはありえないわけである。つまり国府創設地(伝承地)たる国作址(中津郡)域は当時京都郡に属していたとみなければならない」とし、更に「豊前国府は創設当初から京都郡(現豊津町国作)に存在し、平安末期か鎌倉中期ごろまでに同郡草場(府中)に移転した。なおこの間、国府所在地たる国作地区は仲津郡へ編入された」とする。また「このことは考古学的知見、つまり伝承地に分布する布目瓦(『和名抄』編纂年以後のものを含むと推定)の存在、並びに十二世紀ごろの創建とする総社の存在などによっても証し得るように思う」とも述べている。
 ・米倉二郎……国作説。近くに国分寺・総社が存在すること。国作想定地付近は、祓川流域の条里地割りがN三五度に対し、真北をとる道路がみられること。
 ・戸祭幸美夫…須磨園(すまぞの)(旧京都郡、現行橋市)から国作へ(八世紀中ごろ)、国作から須磨園へ移転。
        小字名に国府(こう)を連想させるものが多いとする。それは「幸寄」「国作」「香平ら」「陣ノ内」「古門」「大陵寺」であるが、「大陵寺」は大領を連想させ、「陣ノ内」は京都郡営が国府内に設けられたとすれば、国府関係地名に数えうるとする。また、須磨園付近を流れる小波瀬川の下流には草野津があることや、須磨園の南方に所在する椿市廃寺のような古代寺院は古代の重要施設に近接しているとして、府域方六町・国庁方二町を考えている。
 ・高橋誠一……国作説。府域を方八町としているが、具体的な根拠は示していない。
 ・日野尚志……国作説。大宰官道との関係から推定し、方六町の府域を考えている。のちに須磨園への移転をしたとする。
 ・白石寿………草場説。国分寺との距離関係および文献資料から推定する。
 以上のように豊前国府所在地については、概して国作(旧仲津郡)に想定する学説が多い。しかし、そこに国府の創設から廃絶まで一貫して存続していたとする説は少なく、次の四つに分類できる。
 (1)初期には京都郡内(津熊・須磨園)に想定し、のちに仲津郡内(国作)に移転したと想定する説。
 (2)初期には仲津郡内(国作)に想定し、のちに京都郡内(須磨園・草場)に移転したと想定する説。
 (3)初期には京都郡内に想定し、のちに仲津郡内に移転し、再びまた京都郡内に移転したと想定する説。
 (4)草場(旧京都郡)、または国作(旧仲津郡)に設置されて移転は考えないとする説。
 これらの学説のほとんどは前出のように考古学的な調査を伴ったものではない。中でも文献では最も古く十世紀前半に編さんされた『和名類聚抄』に記載された「豊前国府在京都郡」に依拠しながらの論考が多いが、『和名抄』の記載と実在する国府関連遺跡(国分寺・総社など)とが矛盾して仲津郡に所在することに関して①『和名抄』の誤記である②郡域の変更があった(もともと国府は仲津郡にあった)③『和名抄』の編纂段階では京都郡にあったが、それより古い時代や新しい時代には別場所にあった④『和名抄』の記載は正しい(国府を京都郡に求める)というような基礎になる議論が存在し、そこから展開しているようである。しかし長い間国作でいくらかの土器・瓦片などが地表で採集されたほかには考古学的にもそれぞれの学説を裏付けるような資料も発見されず、いずれも将来の調査に期待するとして、豊前国府の所在地をめぐっては決着をみないまま推移していた。