豊前国府は昭和五十九年度から継続して発掘調査が行われ、その結果福岡県京都郡豊津町大字国作・惣社地区周辺に建設されていたことが明らかとなっている。この一帯は、祓川中流域の左岸沖積平野の縁辺部に当たり、国府は南方から延びてきた標高二六メートル前後の低丘陵上を中心に形成されている。現在、南半に国作の集落が営まれ、北半には水田が広がっている。
豊前国府の所在地は、豊前国全体からみて畿内に近いやや北方に位置し、国内で最も広い京都平野の南部にあたっている。古墳時代終末期から奈良時代の初期には西側の丘陵部から八景山は古墳や横穴墓からなる墓地として利用され、北部から東部の沖積地は水田としての条里が施行されていた。南部に目を向けると大宰府と宇佐八幡宮を結ぶ官道が北西から南東方向に走り、南方約二キロメートルには仲津郡の郡司層の私寺と考えられる上坂廃寺が建立されていた。また、国府予定地にはこの時期既に大規模な集落が営まれていた。